はこね町 -前編-
朝になって、私は車の中で目覚めた。
今日はおねえさん、私と一緒に寝てた。
丸いわっかの席で、窓に頭を当てて寝てた。
毛布にくるまったおねえさんはいつものきつい目つきじゃなくて、そっと閉じた、すやーってした瞼だった。
何だかいつものおねえさんじゃないみたい。
おねえさんて、寝るとこんな顔するんだ。
意識ない時の方が、いい気がする。
怖い顔、してないから。
じーっと観察してたら、「んん」っておねえさんが起きた。
私は反射的に寝てるふりをしちゃった。
掛けてた毛布をまた被って、目を瞑る。
おねえさんは黙って頭をぼりぼり掻いて、長いため息を鼻でしたかと思うと、バコッてドアを開けて外に出た。
片目を開けておねえさんを窺う。
外で背伸びをしてる。腰に手を当てて、上半身を捻ってる。
私も外に出たくなって、寝たふりはやめて車から出た。
音で気付いたおねえさんは私の方を振り返った。
さっきまでの無防備なおねえさんのすやすやな顔はもうどこかに吹き飛んでしまっていて、いつもの感じが戻ってる。
私は挨拶をした。
「おはようございます」
「……おはよ」
おねえさんは挨拶を静かに返すと、いつものように車の後ろのドアを開けて、荷物を弄り始めた。
私は手伝いたくなって、おねえさんの元に駆け寄る。
「真歩おねえさん」
「なに?」
「何か手伝えること、ある?」
おねえさんは顎に手を当ててしばらく考えたあと、言った。
「じゃあ、これ出して朝食の準備して」
「えっ」
いきなり難し過ぎるよ。
私、ごはんなんて作ったことない。
「やり方……」
困ってまごまごしてたら、おねえさんは「だろうね」って分かってたみたいに言って、道具を出しながら説明した。
「レジャー椅子出して、その辺に置いといてくれる?」
「はい」
「出来た?」
「できた」
「じゃあ、次。このコンロに火をつけて」
緑色の缶の上に、鉄で出来た手のひらみたいなのがくっ付いてる物体を、おねえさんは渡してきた。
え。
これから、あの”ひ”が出るの?
どうやって?
首を傾げてたらおねえさんは「やり方見てな」って缶を地面に置いて、つまみ部分をひねった。
そしたらチチチって音と共に、鉄の手の部分から青い”ひ”がボワッと勢いよく吹き出した。
「あっ、出た」
「これがシングルコンロの使い方。覚えた?」
「しんぐるこんろ。うん、おぼえた」
「じゃあ次。鍋に水入れて」
「はい」
れじゃー椅子に座ってお鍋をじっと見てたら、水がぐつぐつと言い出した。
私は報告した。
「なんか、お水がぐつぐつ言い出したよ」
「じゃあ、それをこの中に入れて」
今度渡されたのはCUPって書いてある紙の容器。
蓋みたいな部分を引っ張ったら、ペリって剥がれて中身が見えた。
中には、カチカチとしてて粉っぽいものがぎっしり詰められてる。
指ですくって舐めたら、とてもしょっぱい味がした。
おねえさんが腰に片手を当てて言う。
「そのまま食べてもしょっぱいからお湯を入れて、美味しくすんの」
「へぇぇ」
私は自分で“CUP”の中にお湯を入れた。
そしたら、ちょっと良い匂いがした。
きっと、お湯を入れたらすぐに食べられる便利なものなんだ。
そう思って付属のプラスチックフォークを手にしたら、おねえさんに止められた。
「まだだめ」
「なんで?」
「今食べても硬いから、ふやけるまで待ってな」
「どれくらい?」
「三分」
三分とは、百八十秒のことだ。
タイマーも時計もないから、自分で数えよう。
一、ニ、三……。
数字を数えていたら、突然、頬に冷たいものが触れた。
え? と思って指を当てたら、ほんの少しだけの水がくっついた。
どこから、水が?
シャワーみたいなモノなんてどこにもないのに、いきなり何もないところから水が飛んできた。
きょろきょろしてたら、次第にぽた、ぽたと周りに変な音が鳴り始める。
今度は頭に冷たいものが当たった。
なんで?
上を見上げると、いつもは青い色のお空さんの様子が違う。
太陽さんがどこにもいない。
それと雲さんがいつもより低い位置にいる。白じゃなくて灰色で、みんな繋がってお空一面に広がっている。
お水をぶつけてきたのって、ひょっとして雲さん?
雲さんが、私に水滴をぶつけたの?
頭の中で質問してたら、雲さんは急にざばーってお水のシャワーを浴びせて来た。
ひゃっ。なにこれ、つめたい。
近くに居たおねえさんが悪態をつきながら走り回る。
「くそ。いきなり降って来やがった」
「雲さんが出したの? このお水」
「早く車に入らないとまた風邪ひくよ」
あわわ。
また頭ぐらぐらの鼻水ずるずるにはなりたくない。
おねえさんは私の使ってた“レジャー椅子”とか“シングルコンロ”を適当に全部車に放り込むと、急いで車の中に入った。
私も“CUP”を持ちながら、反対側の席に乗った。
ふぅ。
いきなりのことでびっくりした。
車に乗る時、ちょっとだけお湯をこぼしちゃった。
ペットボトルとかを差し込めるスペースに“CUP”を置くと、私は外の様子を観察した。
車のガラスに水がいっぱいに当たって、”たき”みたいになってる。
天井はシャワーが直撃しているせいか、バシバシ叩いてるみたいな音が響く。
突然のことでぼーっとしながら、私は訊いた。
「このお水さんたちは、なに?」
「雨」
なみなみとした模様の水が窓ガラスに絶え間なく流れているから、外の様子は殆ど見えなかったけど、でも“あめ”は車だけじゃなくて、森や土、その他すべてのモノにもれなく降り注いでいるみたいだった。
あめさん、みんなにお水を等しく与えているみたい。
もしいま外に出たらお洋服はびちょびちょになっちゃうけど、でもシャワールームがどこにもなくたって水を浴びられるってことだから、すごい便利だよね。
シャワー機能があるなんて、外の世界はなんて気が利くんだろう。
“マグメル”のオートサービスみたい。
浴びに行きたいなってちょっぴり思ってたら、おねえさんが地図を開いて何かを始めた。
私も真似して、車の中に備え付けられたポケットみたいな場所から本を出してみる。
地図とちょっと似ている本がたくさん入ってる。
でっかいフォントで“京都”とか“箱根”って表紙に書いてある。
「厚木方面は海水にやられてるか……」
おねえさんが小さい声で独り言を言ってる。
「海はどこ?」
「御殿場の先あたりで見れるかもね」
「早く行きたい」
「そのうち嫌でも左側に常々海が広がってるようになるよ」
おねえさんがぶつぶつ言いながらけーかくを練っている間、私は海よりも本の中身に夢中になった。
写真が多用されたそこには“温泉”という言葉が頻繁に踊っている。
そしてその文字の上や下には必ず、でっかいお風呂みたいな写真が貼られていた。
「ねえ、真歩おねえさん」
「ん」
「おんせん、ってなに?」
「天然のお風呂のこと」
おねえさんは私の持ってる本を見て、目を細めた。
「観光なんて、今時流行らないよ」
「なんで?」
「どいつもこいつも、みんなマグメルに引っ込んでて出てこないから」
「かんこうには、人が居ないの?」
「居たとしても、金持ちへのスリとか引っ掛け商売目当てで来てる奴とかしかいない」
「何だか、怖そう……」
「リスクしかないけど、泊まりたい?」
「とまりたい」
「意味分かって言ってないだろ」
始めの頃よりは穏やかになった“あめ”の中で、車は走り出した。
おねえさんが車をコントロールしている間、私は“CUP”を食べる。
しょっぱくて、あったかくて、美味しい。
“マグメル”では、こういうのは食べたことなかった。
いつも簡素でえーよーかの高いものをけーそくの為に食べさせられていた。
あそこの食べ物に比べて、これは味が極端で強い。
しょっぱすぎて、ちょっとお水が欲しくなる。
“あめ”はまちから離れて行くほど弱くなって、最終的にはなくなった。
車はまちからどんどんと離れて、お山の中に入っていく。
お山の道はまちみたいに散らかってはいなかったけど、その代わりに幅が狭かった。
落ちたら死んじゃいそうな斜面に沿って伸びているぐねぐね道を、車はずっと進んでいく。
はちおうじしとさがみはらしより、綺麗な感じ。
「おねえさん」
「ん」
「さっきからずっと下の方にある、水の道は何?」
「川」
“かわ”っていうんだ。
たくさんの木の間に見える水の道。表面が白い泡みたいになっていて、とっても綺麗。
外を見ていたら、人が立っているのを発見した。
“マグメル”では見たことのない格好の人が、手に道具を持って、しゃがんで道の横にある草みたいなのをいじってる。
「おねえさん、人が居る」
「知ってるよ」
「呼びかけなくていいの?」
「畑仕事中に話しかけられても、迷惑だろうからいいの」
たしかに、あの人達は何か作業をしている。
あれが“はたけしごと”かな。
「ざっかやのねーちゃんに、ならなくていいの?」
「車に雑貨屋ってちゃんと書いてあるから、寄られたら降りればいいんだよ」
「ふーん」
車の文字は、ちゃんと意味があったんだ。
ただの、飾りかと思ってた。
お洒落で、英語と漢字のマークが描かれているんだとばかり思ってた。
『雑貨屋Rover』、って。
あまりにもぐねぐね道が続くものだから、私はいつの間にか寝ちゃってた。
ぐぅぐぅってしてたら、ゴツンて頭をガラスにぶつけて、それで目が覚めた。
おねえさんは寝ずに運転してる。
私が寝ている間にも、ずっと起きてたのかな。
大人って、“たふ”だな。
瞼をこすって前を見たら、雲の中にとても大きなお山が隠れているのが見えた。
さっきまでの連続するお山たちとは違って、それはひとつだけ飛びぬけて大きくて、横に広くて、でも縦にも立派な、でっかさを見え隠れさせる不思議な存在だった。
わあって見てたら、おねえさんが「ふじさん」て言った。
「ふじさん? 人なの?」
「大体の子供はそう思うよ」
おねえさんは、ちょっとだけ頬っぺたを赤くして言う。
うーんて首を傾げてたら、道の反対側で一台の車が素通りした。
私は慌ててふり返った。
おねえさんの以外の車だ!
初めて見る、明るい色で、かなり滑らかな形の車。
おねえさんの四角い車よりも、かっこいい感じ。
「誰が乗ってるんだろう?」
「観光客」
「かんこうきゃく、って?」
「このご時世に景色だけ見に来る、物好きな人たちのこと」
「はちおうじ市とさがみはら市には人、全然居なかったのに」
「あっちはもうずっと廃れてるし、誰も行かないんだよ」
車は、お山と斜面が全然なくなった平らに感じる道に入った。
たまーに他の車とすれ違ったけど、おねえさんは特に挨拶とかしないでそのまま通り過ぎる。
いっぱい生えてる木さんたちをじっと見てたら、大きな水溜りを発見した。
「おねえさん」
「なに」
「あれって、海?」
「違う。湖」
みずうみ。
みず、が付いただけだけど、何が違うんだろう。
「海と、どうちがうの?」
「海は果てまで水で、舐めるとしょっぱい味がすんの」
「えっ」
さっきの“CUP”みたいにしょっぱいの?
それじゃあ、海の水は美味しいのかな。
果てまで広がる水が、“CUP”のスープみたいな味だったら、すごいな。
わくわくしながら席に座ってたら、急にまちが現れた。
「ここどこ?」
「御殿場市」
“ごてんば市”は、はちおうじ市やさがみはら市みたいにモノがぎゅうぎゅうの感じじゃなくて、何だかさっぱりとしていた。
お互いに距離を取り合ってるみたいにスカスカで、何も無いまっさらな地面ばかりで、何だか寂しい。
お山の列がずっと向こうに見えるけど、そこまでじっしつ何もない。
人の入ってなさそうな抜け殻みたいな朽ち果てた建物が横に広く並んでいるだけで、それを越えたらあとは草の地面だけが広がっていた。
すごく、さっぱりとした所だ。
おねえさんは道の脇にあったボロボロの建物の前に車を停めると、つぶやいた。
「ちょっと休憩するから」
「うん。おつかれさま、真歩おねえさん」
「……どーも。そこのコンビニ、かろうじてやってるみたいだし、何か買って来なよ」
「え?」
「寂れ切った街だけど、開いてる店があって助かる」
「みせって何?」
おねえさんは次第にじとっとした目つきでこっちを見た。
たまに、おねえさんは私の質問にこういう顔をする。
「……買い物したことないの?」
「かいもの、っていうのが分からない」
「じゃあ、金も持ってないってこと?」
「前も言ってたけど、かねってなに?」
おねえさんが『信じられない』って顔でこっちを見た。
なんだか、気まずい気持ちになった。
誰もが当たり前のように知ってるぞってことを知らないと、切ない。
灰色の雲が広がる誰も居ないまちの風景を、おねえさんと私は暫く車の中からじっと見つめていたけど、私が質問したら、ちんもくは消えた。
「はこねって、この近くなの?」
「そう」
「この本に、書かれているところだよね」
「そう」
「おんせん、ある?」
「温泉より、湯の花とかそういう他所で高く売れる名産品目当てで行くと、雑貨屋としてはおいしいな」
「わたしはおんせんに行ってみたいよ」
「……仕入れに一日掛かるし、一泊しようと思えば、出来なくもないけど」
「いっぱくしよう、おねえさん」
「はぁ。わかったよ」
おねえさんは休憩を終えると、再び車を動かし始めた。
車は“ごてんば市”を抜けて、目の前にどーんと広がってるお山に一直線で向かった。
お山はずっと、雲みたいな白いものに包まれてた。
おねえさんに訊いたら、“もや”とか“きり”だって教えてもらった。雲とは違うらしい。
道が狭くなって、次第に朝に通ったあのぐねぐね道みたいなところに入った。
かなり急な坂道を、車はぐんぐんと登っていく。
外を覗いても白い“もや”が立ち込めるばかりで、お山は見えない。
いつまで経ってもそういう道と景色が終わらないから、私はそのうちわくわくする気持ちが減った。
早く車から降りたい。
おしり痛くなってきたし。
変な疲労感の中「うーん」て唸っていたら、おねえさんが言った。
「着いたよ」
私は助手席にもたれかかるのをやめて、背筋を伸ばして外を見た。
木に囲まれたぼろぼろの広場の中に、おねえさんの車は停まってた。
他の車は一個もない。白い線がびっしり描かれているコンクリートの地面はどれもすすけていて、今にも消えてしまいそうなほどに古い。
“もや”にすっぽり覆われたお山がぐるりと辺りを囲んでるから、誰も居ない雰囲気がとっても強かった。
私とおねえさんしか、この空間にいないんじゃ。
「静かな所だね」
「元々辺鄙な所だしね」
おねえさんはドアを開けると、車から降りて私に訊いた。
「あそこの、やってるのかやってないのか分からないホテルに空き部屋あるか訊いてくるけど、雪保はどうする?」
「行く。一緒が良い」
私は“はこね”の湿っぽい空気を吸いながら、おねえさんの言う“ホテル”の中に入った。