はじめての外
そうと決めたら、あとは抜け出すだけ。
しゅしゅっと抜け出して、海や空、山を目指すだけ。
私は毎日、いつも決まった時間に運動をさせられる。
凄くおっきなドームみたいなところで、トラックを走ったり、ボール遊びとかをさせられる。
ボール遊びは、地面にダンダンと叩きつけて高い位置にある籠に入れるやつと、あと足で蹴っ飛ばすやつが好き。
それはともかくとして、私は今日もその、でっかいドームにやって来た。
私一人には余り過ぎるくらいに広いそこは、常に研究員の人が二、三人いる。
でも、今日は運がいいことに一人だったので、これなら、お水を飲んできます、とか言えば離れられると思って、実際にそうしてみた。
「あの」
「何だね」
「お水、飲みたいです」
「これを飲みなさい」
骨張った眼鏡の研究員の人から手渡される、いつものしょっぱ甘い飲み物。
しまった。
いつもこれで、喉の渇きは済まされちゃうんだった。
「あの、やっぱトイレ、行きたいです」
「なら向こうだ」
ずっと遠くにある小さな出口を差す眼鏡おじさん。
私は頬の汗を拭いていたタオルをベンチに置くと、そのままタッタッて、言われた出入口に向かった。
そこは入ってきた場所とは違う出口で、いつもトイレとか着替えを済ましている場所。
更衣室とか、お手洗いとかがあるところ。運動に使う道具とか、ボールとかも仕舞ってある倉庫もある。
こっちの方は人気がなくて、いつも薄暗い感じだったから、闇に紛れてどこかの通路に抜け出せるはず。
案の定、そこには誰も居なく、私はいつも使っている真っ白なトイレの前を通り過ぎて、今まで行ったことのない、奥の方に行った。
明かりがついていないので暗い。トイレから離れて行けばいくほど、明かりが乏しくなっていく。
やがて手探りで、壁伝いに奥の方へと歩いていると、一枚の扉が現れた。
硬い鉄製の扉。
二枚の扉が隣り合って、閉めてるタイプのやつ。
鍵が掛かってるかも。
そう思って、ちょっと不安になる。
どきどきしてきた胸を触りながら、そっとドアノブに手を掛け、回す。
すると、ギィと柔らかく、自然に開いた。
やった! 鍵は閉まってなかったみたい。
開いた扉の間をさっと通り抜けると、あとはばれませんように、と祈って、そっと閉めた。
出てきた通路には天井に小さなライトが等間隔にぽつぽつとあって、弱い光を床に当てていた。
今通ってきたところと比べたらずっと明るくて、私は安心する。
出た先が真っ暗だったら、動けないから。
私は今まで来たことのないところを見るドキドキと、これから抜け出すんだというドキドキ、そして見つかるんじゃないかというドキドキで、胸がいっぱいになりながら静かに歩く。
ここの廊下、すっごく長くて、いつまでもいつまでも、奥に続いてる。
次に扉が見えて来たら開けて次の場所に逃げようって思ってたのに、中々出てこない。
寒い。
運動着のまま出て来ちゃったのは、少し失敗だったかも。
こんな、袖のない服じゃ、寒い。
腕をさすりながら歩いてたら、やっと次の扉が見えた。
私は急いで駆け寄ると、扉に片耳を当てて、先がどんなところか探る。
扉はひんやりとしていて、分厚い感じがして、音は全然聞こえない。
ちっとも探れないので、一か八か。ギギ、と開けた。
また通路。
最初は警戒してたけど、あまりにも同じような場所が続くから、私は段々と雑な逃げ方をし始めた。
普通に歩いたし、人が来る気配もないから、足音も普通に出してみる。
それでも、私を追いかけてくる人はいない。
今回は本当に、抜け出せちゃうかも?
もう何枚の扉を抜け出したか分からないけど、とにかく数えきれないくらい色んな場所を抜けたら、私が見たことがない所に出た。
そこはビュウって、でっかい空調の風みたいなのがどこからか吹きすさぶ場所だった。
とっても暗くて、誰も居ない。
ライトがぽつぽつあったこれまでの通路とは全く違って、上を見ても天井はなくて、ただひたすらに、真っ暗。
空調? がゴウゴウと言ってる。
そんな機械、どこにもなさそうなのに、すごい風があちこちから吹きあたってくる。
寒い。
今までの寒さとは比べ物にならないほど寒くて、肌がきゅって、委縮する。
何だか、痛い。
風が肌に痛い。
私は開けっ放しだった背後の扉を慌てて閉じると、その暗くて風の吹き荒ぶ場所でそっと姿勢を低くして、周りの状況をみた。
地面は、排水溝の網目みたいな鉄の床で、ひんやりと冷たかった。下からも風がゴウゴウと吹いていて、人の気配はない。
傍の壁を見ると、真っ白。
硬くてザラザラとしていて、やっぱりこれもひんやり冷たい。
左右を見てみる。
真っ暗。
上を見てみる。
天井がない。
あっ。でも、その代わりに――。
「あれ」
思わず声を出す。
首を上に向けて、それで天井が無いのが分かったんだけど、でも、天井の代わりに、見たこともない、分からないものがずっと高くにあった。
白とも、何とも言えない色の、小さな輝く粒が、ぶわあって頭上にいっぱいに広がってる。
よく見ると、頭の上の真っ暗は実は真っ暗じゃなくて、どことなく薄っすらと藍かった。その藍の中に、輝く粒みたいなのがいっぱいある。あっちからあっちまで、いーっぱいにあって、それでどれもキラキラと、ちょっと違う感じの光を放ってた。
ひときわ大きな、卵の黄身みたいなのも半欠けで浮いている。
突然、ぐわあって下の方から風が吹いてきたので、私は自分の長い髪に頬を打たれて目をつぶった。
薄っすらと目を開けて、風の吹いてきた方を見ると、ずーっと下の方に、微妙な明かりみたいなのが見える。
そこに続く、鉄製の簡素な長い長い階段。
目が慣れてきたのか、私はついさっきまで気付かなかったものたちが見えるようになった。
ここは非常口みたいなところみたい。
がむしゃらに扉を開けて、なるべく人気のない方に向かってたら、外に出たみたいだ。
外。
そと?
突然きゅんと、お腹が締まった。
肩がぶるぶると震えて、胸に何かが込みあがって、それでうぅぅ、て声を出したくなった。
わー! て叫びたくなった。
私、ついに外に出た?
あれはおはなしに出てきた“星”で、その隣が、“月”?
それで、この頭上にずーっといっぱいに広がっている天井は、“空”?
この薄暗い藍いのは、“夜”?
それで、このあちこちから吹いてくる風は。
外の風!
私は急に元気になって、すって立ち上がった。
壁伝いに伸びてるっぽいその階段を、私はどんどんと降りて行く。
カン、カンと鳴り響く階段の音。
あんまり音を出してると見つかっちゃいそうだからって、そっと歩き始めても、それでもカンカンと鳴る階段は簡素で、落ちたらなんか、大変なことになりそうな雰囲気。
右手側にある白い壁はなんだかザラザラとしていて、触ると白いのが手にくっついた。汚くて、手のひらを服で拭いたら今度は服が汚くなった。
でも私は、運動着の事なんかどうでもよくて、ただひたすら、下に見えるぼんやりとした明かりを求めていっぱい歩いた。
歩いて歩いて、まだ続くのって不安になりながらも歩いて、そうしたら遂に、階段は終わった。
地面はのっぺりとしたアスファルトに変わって、それで下に見えていた光は、さっきまでよりずっと明るく、私の目の前に現れた。
何だか人の気配がするので、私は息をひそめる。
終わった階段から、相変わらず右側にある白い壁沿いに、そっと明かりの方へと近づく。
やぁ、と突然人の声が聞こえたので、ぎょっとして私は口を覆った。
ドキドキとしつつ、物陰からそっと、声のする方を覗き込む。
そしたら、私の目には明かりの前で会話をしている、二人の男の人が見えた。
片方は太ったおじさんで、もう片方は背の高い痩せたおじさんだった。
「今日は冷えるねえ」とおじさん。
「いや、まったく」
「いい加減に、冬も終わったと思ったんだがね」
「春先でもこういう、寒い日は来るよねえ。年々、季節の節目が崩れていくようだ」
季節?
春?
冬?
どれもお話で聞いたことしかないものばかりで、ドキドキしつつも私はおじさんたちの会話を聞く。
「そう言えばあれ、聞いたかい」
「何を?」
「外の話。また、犯罪の発生率がどうのこうのって」
「どんな」
「殺しとか、盗みとか、いろいろだってさ。物騒だね」
「マグメルの外なんて、そんなもんだろうなあ」
マグメル?
何だろ、それ。
マグカップの親戚か何かかな。
「この建物の中ではそんなものは滅多に起こらないから、ちと怖いね」
「自ら外に行こうとする酔狂な奴なんて、私らくらいのものだろうしね」
「たまにはこうして、ちょっと外に出るくらいには空気ってものを吸いたいだろう。煙草も美味くなるし」
「まあね」
カラカラと笑うおじさんたちの会話を聞いて、私は一人、心の中でガッツポーズをした。
外!
やっぱりここは、外なんだ。
私は今まで居た、おじさんたちの言うマグメルとかいうものから、抜け出したんだ。
ここから更に離れれば、もっともっと、外なんだ。
私は、明かりが漏れてるところに立って楽しそうに会話するおじさんたちをそっと見やると、お別れするみたいな気持ちで、静かに離れた。
私は今、外に居る。
ここからどこに行こうと、自由なんだ。
ずっとずっと、自由なんだ。
私は階段のある真っ暗な場所へと戻ると、そこからきょろきょろと、辺りを見渡した。
目が随分と慣れてきたみたい。
真っ暗でも、大体の物の輪郭は分かるようになってきた。
私がついさっきまで入っていた“建物”は、大きな丘みたいなのに挟まれてた。
あれがきっと、“山”だ。
暗くて良く分からないけど、でもあのでっかいのはきっと、“山”。
そのでっかいのとでっかいのとの隙間のずっと先に、ぼやーっと光っている感じのが見える。
あれは何だろう?
なんで、あんなに明るいんだろう?
建物の外なのに、なんであんなに明るいものがあるんだろう?
今は“夜”なのに。
なんて、今まで憧れてた言葉を、たまらなく嬉しい気持ちになりながら、私は堂々と頭の中で“夜”って言葉を使う。
あの明かり、気になる。
あの明かりを発するものに行きたい。
見てみたい。
触れてみたい。
それで、どんなものなのかとっても知りたい。
私は階段から離れると、遠くの明かりを見ながらふらふらと歩いた。
さっきまでアスファルトだった地面は急に終わって、代わりに柔らかいものになった。
何だろう、きめ細やかな草がいっぱいに敷き詰められてる。
しゃがんでその草を触ると、その下に更に柔らかいものがあった。
それは茶色くて、汚くて、ちょっと臭かった。
でもそれが本物の“土”だって気付いたら、途端に嬉しくなって、舐めてみたら、とっても不味かった。
苦くて、うえって感じ。
ぺっぺって吐き出したら、すぐにまた歩き始めた。
振り返ると、おじさんたちが立っている所の明かりが遠くにぼんやりと見える。
その明かりは、なにかとてつもなく大きな、どーんとした丸っこい物体の一番下から漏れてた。
あれが多分、マグメルだ。
私がずっといた、建物の世界。
ずーっと廊下が続く、卵の殻みたいなところ。
後ろばかりを見て歩いてたら、ゴチッと何かにぶつかった。
とっても痛くて、うぅ、て声を上げてぶつかったものの方を見たら、高い壁みたいなのがあった。
私を何人分か縦に積み上げたくらいの高さのそれは、のっぺりとしていて、硬かった。
あの長い階段を降りてくる時、ずっと右側にあった白い壁と同じものだ。
硬くて、ひんやりとしていて、白い。
壁は左右にずーっと続いていて、終わりが見えない。
これじゃ先に進めない。
困ってると、そばに備え付けられた梯子みたいなのを見つけた。
壁の上に続いてるみたいなので、私は試しに登ってみた。
登り切ると、監視所みたいになってるところに出た。
ここから下を見れるように出来てるみたい。
覗き込むと、何とか飛び降りれそうな高さだったから、私は思い切ってジャンプしてみた。
身体がガツンと、上から下にハンマーで叩きつけられたみたいになって、足や腕の骨がびりびりした。
痛い。
ちゃんと着地したはずなのに、全身の骨がキーンてなってる。
高すぎたのかな。
やがてそれもおさまると、私は立ち上がって、明かりの方を目指した。