美術準備室
まあ、見どころです。
少しして、先生が急に顔をあげたので、何事かと思い
「どうしました?」
と聞くと、
「近藤!授業は!?」
と叫ばれた。叫ばれたので反射的に時計を見ると、朝礼まであと五分あった。
「まだ大丈夫ですよ」
と答えると、
「コーヒーは好きか?」
と尋ねられた。
「クッキーがあれば最高ですね」
と冗談めかして言ったら
「お、この間の差し入れが残ってたはずだ」
と先生は美術準備室にある唯一の机を探り始めた。
「いえ、冗談ですよ」
「でも、どうせコーヒー飲むなら美味しく頂きたいだろ」
やけに自信満々に言われたので、そういう事にしておこう。
「ここに置いとくな」
「ありがとうございます」
「休憩しよう」
そう言って、先生が席を勧めてくれた。僕は立ち上がり、絵とパレットと、その他もろもろを踏まないように部屋の奥へと移動する。そして席に座って、コーヒーを手に取った。
先生はまだ、絶賛行方不明中の差し入れを懸命に探している。そんなに探さなきゃ見つからないくらいなら、きっとその差し入れは腐っているのではないだろうか。という不吉な考えが頭をよぎったが、
「あった」
と出してきたお菓子箱は真新しく、その上未開封だった。
「このクッキー、最近雑誌とかで話題になってるらしい」
「へぇ」
「どうもその辺には疎いんだが、そうなのか?」
しかし僕にも分かりかねたので、
「女の子の評判はよさそうですね」
と返しておいた。「へぇ」と相槌を打った後で、さすがに知ったかぶりは出来ない。
「まあ、どうせ食べる人もいないし、じゃんじゃん食べてくれ」
「では、遠慮なく」
「少しは遠慮しろよ?」
「じゃあ、遠慮しておきます。先生が貰ったものなんて、そんな、恐れ多くて食べれるわけないですよ…」
そう言って目を伏せたら、先生はお菓子の箱を開ける手を止めた。それから僕を見つめ、見つめたまま動かなくなった。
あまりにも動かないので、思わず僕も先生の顔を見る。全く動かないその顔は、少し眉根が寄っていて、どこか難しそうな表情をしていた。何かを懸命に見ようとしているような、判断しようとしているような。そんな顔だった。
しばらくたって、
「予想外に喰えないやつだ」
と神妙な顔で言われたので、
「食べようとしてたんですか。僕は美味しくないですよ」
と冗談で返した。
先生はまだ何かもの言いたげな顔をしていたが、僕は気づかないふりをしてお菓子箱に手を伸ばした。
「食べてもいいですか。美味しそうな匂いがして我慢できません」
「おっと、悪いな。どうぞ、存分に食べてくれ」
「ありがとうございます」
受け取った箱の中には、色鮮やかなクッキーが入っていた。僕は、その中で一番普通のクッキーを手に取った。丸い縁には砂糖がまぶしてあり、どこにでも売ってるようなクッキーに見えた。
先生は、真ん中にイチゴジャムが入っているクッキーをかじっていた。
「おお、旨いな」
僕も一口。
「本当ですね」
「期待以上だ」
「話題になるだけありますね」
そこで先生が呟いた。
「馬鹿にならないもんだな」
「雑誌を馬鹿にしてたんですか」
「一人の見解が万人に当てはまるとは限らない」
なるほど。記者一人の見解で記事を書いていると思ってるのか。まあ、雑誌事情は知らないが、
「ちゃんと売れ行きとか、噂も含めて取り上げてると思いますよ」
すると先生はこう切り返してきた。
「噂はあてにならない、という自論があるんだが」
「何でですか」
「どうせ七十五日しかもたない」
人の噂もなんちゃらってやつか。
「噂はその程度の価値だというわけだ」
「七十五日ももてばすごいと思いますけど」
なんたって、二ヶ月とちょっとだ。
「何を言う、若者。七十五日なんてすぐ過ぎる」
「そうですか?案外、月日は早く流れないと思ってますけど」
思います、ではなく思ってますと言ったことが引っかかったのだろうか。先生が
「それは自論か?」
と聞いてきた。
「そうですね…、一般論にすり替える気はありません」
「しかし、そう考えるのには理由があるんだろう」
「ええ、まあ…」
自分の考えを話すのは随分久しぶりだな、とかそういうことを考えながら僕は口を開いた。
「一日が早くすぎたと思うのは、後から過去を振り返ってみて思うことなんじゃないかな、って思うんです。今、生きている実感としては、早くこの時間が過ぎてくれないかな、とか授業まだ終わんないのかよ、とか考えたりしますよね。だから、まあ、そういう視点で見ると、意外と時の流れは遅いなと」
「なるほど。一理あるな」
先生は僕の言葉に頷いてから、
「しかしだな、余計なお世話かもしれないが、」
と前置きをした。そしてそれから、ゆっくり、丁寧に言葉を発した。
「今、この時この瞬間を大切に過ごせよ」
心のこもった言葉に聞こえた。
「心に留めておきます」
こうしてさして内容のない話はいつまでも続く。その上、一つの話に固着しないもんだから、話の内容がコロコロ変わる。コロコロ変わっていくうちに時間は過ぎる。
いつのまにか、朝礼の時間になっていた。
「あっ、もう始まってる…」
「それは悪い!引き留めすぎた。担任は誰だ?俺から話しておく」
「大丈夫ですよ。週番でしたと言えば何とかなります」
「いや、それでも…」
「では、また」
そう言って、美術準備室を後にする。
結局、コーヒーが好きではないということは言い出せなかった────