1日目
短めです。
暇つぶしにでもお願いします。
俺があいつと出会ったきっかけは、何でもないことだった。
俺はその日、週番でいつもより早く学校に来ていた。誰もいない教室。静かな学校。
「週番、もう一人は休むって言ってたな」
〈公欠〉と大きくかかれた黒板を見て、俺は呟いた。
開け放たれた窓から、柚子の香りと気持ちの良い風が入ってくる。季節は夏。セミの時期だ。
俺は新しくなった掃除棚からほうきを取り出して、教室の床をはいた。砂が浮かび上がってくる。昨日も放課後、掃除したはずなのに、一晩にしてこんなに塵がたまるとは。それもこれも、あの山の灰のせいかな。そんなことを思うと、何だか掃除しても意味がないように思えて、自分で勝手に落ち込んだ。
気分がのらない。
そんなとき、俺は必ず歌う。なんの曲でも一応大丈夫だ。でも、その日はなんとなく、日本の昔ながらの歌(ふるさと等々)が歌いたかった。俺のレパートリーはそんなに多くない。その中でも夏の曲といったらやっぱり、
『卯の花の匂う垣根に 時鳥 早もき鳴きて 忍び音漏らす 夏はきぬ』
俺は一番だけ歌ってむせた。最後の高音を出すのが辛くなってきた。昔は女子に劣ることなく楽々と歌うことができたのに、やはり音楽から離れると、ろくなことがないなと思った瞬間だった。
すると、教室の前の方のドアが開いた。続いて白衣姿の男が入ってきた。そして
「お、男か」
と驚いたような声を出した。
「高くて綺麗な声が聞こえたもんだから、てっきり女かと」
一人呟く白衣男。 俺は目の前にいる男をまじまじと見てしまった。長身で細身で美形だ。目鼻立ちが整っていて、顔一つ一つの部位がくっきりしている。初めて見る顔だ。
だからとりあえず
「あの…誰ですか?」
と俺は聞いてみた。男が不敵に笑う。
「お前の十年後」
「タイムトラベルですか」
「空だって飛べるぞ」
そこで男は手をパタパタさせて、飛ぶジェスチャーをした。
「誰でも出来ますが」
俺も同じ様にやってみる。すると、白衣男は頭をポリポリかいて
「お前とは似たいとも思わないな」
と苦笑した。
「生徒に向かって酷い言い草ですね。それでも教師ですか?」
「お前が平然と冗談を返すからだ。それでも学生か?」
気の合いそうな先生だ、と俺は思った。だが、見たことのない顔には違いない。こんなに髪が黒くてさらさらした先生を、この学校で見たのは初めてだ。松葉寺高校教師の平均年齢、58.2歳。お歳のせいか、皆様髪の毛が薄い。
いや、そんなことはどうでもいいんだった。
「あの、すみませんが、脱線しています」
俺は話を戻そうと、手短に警告する。すると
「始業式、休みだったか?」
と聞いてきた。俺は反射的に 「いえ…」 と応える。
始業式の話を持ち出してくるということは、やはりこの人は今学期になって入ってきた先生なのだろう。その中の理科教師…と言いたいところだが、残念ながら今期は理系教科の先生は入ってきてない。
「先生の担当って、理科じゃないですよね?」
俺は男の白衣をまじまじと見ながら言った。
「ペニシリン反応くらい分かるぞ」
白衣男および自称理科教師が悪びれもせずに笑う。俺は少々呆れながら
「ペニシリンって反応するんですか」
と笑い返した。
「光の三原色は分かる」
「光のさんげん…え?」
つくづく、意味の分からないことを言ってくる奴だと俺は思った。光の三原色とか、そんなこと、理科の授業で習った覚えはない。いや、光の時に習った気もしなくはないが…、要するにコイツは、自分が美術教師だと言いたいようだ。
「それなら、何故白衣を着ているんですか?」
俺の言葉に、先生は大きく口を開けた。そしてそのまま閉じた。
「これが科学者の白衣に見えるか?」
「…ええ。違うんですか」
「違うね。大いに違う」
と真面目な顔で言ったもんだから、
「具体的には?」
と問われても答えられるような、ちゃんとした理由があるんだと思っていたら、先生は一瞬にして破顔した。
「着る人が違う!」
「それ、実質同じですよね」
「着る人が違えば、サイズも違う、臭いも違う、汚れ方も違う。見てみろ近藤。この裾の汚れを」
後ろを向いて、わざわざ見せてくる。確かに、科学教師ではつかないような汚れが裾どころか、白衣全体についていた。色とりどりの絵具やペンキ、粘土、版画のインク。けれど、そのごっちゃまぜになった色は決して汚いものではなく、ひと一人の人生を表しているような、そんな深みがあった。
「汚れというか、一種のアートですね」
俺は素直に感想を言う。 先生は、大きく目を見開いてから
「いいこと言うな」
と笑った。屈託のない笑顔だった。