神は気まぐれに思考する
自分の思考を神にしたっていいじゃない、エッセイだもの
常識を持っている者に本当、もしくは真実を気まぐれで与えたことがあった。
私はただ、お前達がどれだけ幸福に暮らしてるか分からないようだからしっかりとしたとした価値観を与えてやっただけなのにまさか精神があんなに脆くなるとは思わなかった。
びっくりしたよ、だから今度は少しずつすり合わせるようにこちらの価値観を語ってみたのだが今度はそんなこと「信じたくない、信じられない」「聞きたくない、聞かせないで」「知らない、知りたくなかった」と言ってきた。
おいおい お前達がどんなことをしてきてその結果どうなるかを想像できるようなちゃんとした価値観だぞ、何故そんなに恐れている?
「いたって当たり前のことを教えただけじゃないか」と私がいうと「こんなことありえない」とお前らが言う、
そこで私は気づいた「そうか、想像でも次に何が起こるかわかってしまうと次の一歩が踏み出せなくなるのか、これは失礼した」
私がこういうと「私たちはそんな柔じゃない!」と言い返してきた。
いや、お前ら何言ってんの?
というか何を考えているのかちゃんと言ってくれよ、これじゃあ常識のすり合わせすらできないじゃないか
自らが見聞きしてきたことが常識となっているのだから例え隣に立ち同じ方向を見ようとと
「ああ、あれか~(特徴)だよね」「うんあれだね~だろ」と認識しているもののすり合わせをしない限り同じものを見ているとは言い難い。
なのに最近のやつらは画像や動画を取り出して「これ」「おk」
なるほど これはひどい、これでは認識のすり合わせをすることもなくなるだろう。
まぁ、手間を省くにはいいがこれではいざ言葉だけで説明しようとすると「あれがこうなんだけど」「これがこう?」「ちがう、こうだよ」「いや、だからこうなんだろ」
といった不毛ともいえる会話になる、しかも説明している方も受けている方も何が足りないのかわかっていない。
これはいつもなら画像や動画で共通の認識を持ってから話しているから通じるのであり、
その前提がなくなるとそれぞれが同じことを思っていても言い回しや表現、視点などが違っているため「こいつと私が思い描いているのは違うのではないか」と勘違いを起こすためである。
今の人々は常識がまるですべとの人の共通認識のように思っているが文字の意味を少し見てほしい
まぁ、こちらの勝手な解釈だが常識とは「常に織り成すもの」であるからしてけっして「共に通り、認め織り成すもの」ではないのだ。
なんというか近年このことを忘れている若者が多く感じられる、きっとネットでのいざこざもこういった昔は当たり前としてあった認識のずれを正す行為をめんどくさがったため頻繁に起こるようになったのだろう。
私がこんな哲学じみた行為をしても無駄だとわかっている、しかし何でも知っていても時に考えを起こさないとあまりにもつまらないだろう。
そういえば私の発言はどうやら批判しているかのような言い回しが多いらしい、そこは否定しないでもないが何かを対比に出すときもう片方を否定するのはよくあることだろうに
そんなに言い回しが気になるということは思考の幅や形が大きく違うことを表していると考えたことはないのだろうか。
例え回りくどくともイライラさせてしまう言い回しだとしても、私がどのような考えをしているかを伝言ゲームのように間違うことなく伝えようとした結果であるというのに。
もしかしたら、もう少し角の取れた言い方ができれば批判も少なくなるのかもしれない、やりはしないが。
しかし、人々もよく飽きないものだ。
原因はこんなにも単純なのに「イジメガー」「ネットノエイキョウガー」と無駄に議論を重ねている、
だからこそこちらが飽きることなく考えを深めていけるのだが・・・。
まぁいいか、どうせここからは動けない
彼らは忘れているようだがこちらに来るまでは動くな、干渉するなと言ったのだから私はただ待ち続けるさ。
ゆっくりとな
初めての投稿、
正直連載小説を書きコメントを受け付けてる人はすごいと思う
今でも思ってる