0 終わらない日常の終わり
お読みいただき、誠にありがとうございます。
初心者の初投稿ですので、分からないことだらけですが、これからよろしくお願いいたします。
「今日の主役はウィリアム・ウィルバーフォース。イギリスの奴隷制度に挑んだ男だ。彼の行動で世界はどう変わったと思う?」
志村勇人教諭はいつもの語り口で授業を始める。生徒たちは自然と引き込まれていく。彼の授業は歴史上の人物を、1人の”生きた人間”として描き、激動の時代を物語のように伝える。生徒たちは彼の授業に熱中し、教科書以上のものを学んでいた。
しかし、そんな授業の裏側にあるのは、ギリギリまで削られた睡眠時間と、終わりの見えない業務だった。
「志村先生、部活の練習、立ち会いお願いできますか?」
「先日対応した例の生徒指導の件、報告書としてまとめてもらえますか?」
どんな依頼にも笑顔で応じる志村を、生徒も同僚も深く信頼していた。だが、その信頼の重さは、ときに人の心と身体を押しつぶす。
夜遅くなり、職員室に残っている教員の姿も、もう数えるほどになっていた。
志村の机には、プリントの束が雪崩のように積まれている。採点待ちの答案用紙に、三者面談の日程調整、明日の授業で使うスライドの手書きメモ。
志村は、その山を前にため息をついた。
職員室の蛍光灯が、疲れた目に刺さるような白い光を落としていた。外はもう真っ暗で、窓の向こうに浮かぶ体育館のシルエットが、まるで何かの墓標のように見えた。
「教員ってのは……いつになったら報われるんだろうな……」
学校行事、進路指導、生徒指導、部活動顧問……授業以外の仕事が多すぎるこの職業に、彼はもう何年も違和感と不満を抱えていた。
「俺が偉くなったら、絶対にこのシステムを変えてやる……!教員が働きやすい社会へ……」
それが彼の信念だった。授業に情熱を持っていたからこそ、夜遅くや休日にしか授業準備ができないこの状況が許せなかった。
そんなことを考えながら、志村は重い手でペンを取った。
しかし――
目の前のプリントが二重に見えた次の瞬間、志村の視界は急激に暗転した。胸の奥に重く鈍い痛みが走り、体が言うことをきかなくなる。
「……あ、れ……?」
声にならない声。ペンが指の間から滑り落ちた。机に突っ伏す形で、彼の身体は沈むように崩れた。
その音に、すぐ近くの席にいた同僚が顔を上げる。
「志村先生? ……志村先生!」
呼びかけに返事はなく、慌てて彼のもとに駆け寄る気配が職員室に広がる。
「救急車呼んで!」
職員室は一気に緊迫した空気に包まれ、いつもとはまるで違う声と動きが交錯する。誰もが必死だった。誰も諦めてなどいなかった。
それでも、救急車のサイレンが近づいてくる音は、どこか遠く、届くまでの時間があまりに長く感じられた。
仲間たちの手の中で、志村勇人という一人の教師の人生は、熱意と責任に満ちた日々の果てに、静かに終わりを迎えようとしていた。