プロローグ:盗み聞き
21XX年。温暖化で第一次産業が激減し、人々の食事はAIが作る栄養ゼリーだけとなる。政府は食育VRMMOを開発し、その成績が就職や結婚を大きく左右するようになった。
「ごちゃごちゃうるせぇ! 萌奈香は俺の女だ! ついてこい!」
単身、チャペルへと乗り込み、愛する萌奈香の手を取る。
萌奈香の瞳はやや潤んでいるも、こちらを見てしっかりと頷いた。
純白のウエディングドレスの彼女を抱き寄せ、狂おしいキスをする。
唇の感触を確かめているとスタッフたちが「そいつを摘まみ出せ」と騒ぎ始めた。
「さぁ、萌奈香。俺たちの新居にいくぞ!」
そのまま萌奈香をお姫様抱っこして、チャペルから走り去る。
ふと、萌奈香へ視線を送ると彼女も頬を染め、俺の首に腕を回してきた。
来場客の中には、驚いた顔の友人たちも多く見え、全てを手に入れた満足感が漂う。
これから二人だけの新居に行き、初めての夜を……ついにその夜を……。
◇◆◇◆◇
パー、パラパー、パラパッパッ、パラパパ──。
けたたましいウィリアムテル序曲が鳴り響く。
うまく動かない右手で暗闇の中を模索し、音の元凶をまさぐる。
「なんでこのタイミングで鳴るかな? もう少しで良い所だったのにさ」
ぼやけた視界に飛び込んできたのは7時15分を指し示すデジタル文字。決して見知らぬ天井ではない。
寝ぼけ眼で大きく伸びと欠伸をし、目覚ましアラームを止めて上半身を起こした。
数度目を瞬かせ、鏡を見ながら凛々しい顔を取り戻す。
それから枕元に置いてある萌奈香の写真へ目覚めの挨拶とウインクをした。
「はぁ……夢と思えないくらいの弾力だったなぁ。ムフフ」
夢の内容を思い出しては顔がにやけてしまう。
慌ててパンツの中を確認。セーフ。
匂いも無事なことに安堵して起き上がり、レースのカーテンを開けて朝日を浴びる。
小鳥たちが気持ちの良い朝に小気味良いリズムで、「ちゅんちゅん」と優しく語り掛けてくる。
「やぁ、サブローにサチコ。君たちも俺のすがすがしい朝を祝ってくれるのか?」
『峰大は今日もかっこいいね!』
『今日も素敵な朝をお届けよ。何だったら演歌でも歌いたい気分だわ!』
片やステップ、片や羽を毛繕いする褐色の小鳥たち。
俺が微笑みかけると、すぐさま飛び去ってしまった。
おっと、いけない。
こんな脳内妄想を捗らせている暇は無いのだった。このままでは遅刻してしまう。
急いで制服に着替え、一階に下りてキッチンへ足を運ぶ。
冷蔵庫を開けると、異質な物が観音開きの扉の裏に鎮座していた。
「うっわ。父さんがまた酔っぱらって変なのを入れてるよ!」
今日は靴下とTVのリモコンが納品されており、靴下はどうやら昨夜の脱ぎたて一品のようだ。酸味のある匂いが鼻を突く。
なるべく触れる面積を少なくして摘まみ出し、その汚染物を洗濯ロボットへと投げ渡す。
凍死寸前で横たわるリモコンもついでに救出しておき、当初の目的の栄養ゼリーを手に取った。
喉から胃に何かがダイブしただけのゼリー。味どころか、鼻抜けすら何も感じないそれを片手に栄養補給しつつ、家の外に出て自転車へ跨る。
「すぐそこまでが地獄すぎる……」
外は灼熱の気温。数秒で汗がドッと吹き出してきて、既に制服のシャツが肌にくっつき始めている。
通学路までの99m。この区間だけは暑さがどうにもならず、喉の渇きを感じるも、どうにか自転車を漕いで進む。
汗が顎から滴り落ちる。
通学路は目と鼻の先であるのに陽炎で揺れ、我慢限界時のトイレみたいに遠い。
「ふぅ~到着~! あー、生き返る」
ドーム状の冷房空間が広がる通学路へ辿り着き、一息つく。
肺の火照った空気を全て吐きだし、大きく深呼吸。
少し落ち着きを取り戻した後、自転車の電光パネルを見やると、表示されている気温も適温へと戻っていた。
汗だくで重く感じる体。心持ゆっくりと通学路を進む。
──21XX年。外気に晒されての生活はできなくなった。
結果、ドーム状の冷房空間が、至る所に用意されている。
透明なドーム越しに見えるシャッター街は、異常な外気と引き換えに活気と人が消えた。
中は巨大ホテルのエントランスを思わせる高さで息苦しさはなく、そこかしこで弾む会話が聞こえる。
信号が赤に変わり、リズミカルにハンドルを指で叩きながら青になるのを待つ。
すると楽しげな女子グループの声が耳に届き、その中には聞きなれた声も混ざっていた。
「私、学区1位の多部君が好きなの」
苗字を呼ばれ、心臓が大きく跳ねる。
こっそり振り返ると、そこには幼馴染の相須 萌奈香がいた。彼女が女子グループと話をしている。
髪はミディアムカールで柔らかい雰囲気もあるけれど、意外に頑固なところも多い萌奈香。
胸元の赤いリボンがとても似合っている。
口元を抑えて笑う仕草で、春の制服からチラりと見える脇に少しドキドキしてしまう。
萌奈香とは家が近く、幼い頃からよく遊んだ。
おままごとで夫婦役も経験済みだし、お医者さんごっこで肌に触れたこともある俺は、既に旦那と言っても差し支えないだろう。きっとそうに違いない。
だからこの会話も聞く権利があるはずだ。
そう自分を納得させ、多少後ろめたくはあるが、彼女たちの話に聞き耳を立てる。
「やっぱりイートインワールドの1位は魅力的よね~。将来安泰だし」
「う、うん」
一瞬、俺のことかと思ったけど、違った。
萌奈香が言った「学区1位の多部」は俺じゃない。
俺とは違う、もう一人の多部。
多部 翔。
昔から何をしても勝ったことがない双子の兄だ。
顔を歪め、唇を強く噛む。
俺と翔の何が違う。誕生日だって同じなのに。
そんな考えが過り、自転車のハンドルを握る手に思わず力が籠る。
翔と同じ姿は毎日鏡の中で見かけるのに、違いを突きつけられてざわつきがチクっと俺の胸を刺す。
苦虫を嚙み潰していたら信号が青へ変わり、その場から逃げ出すように自転車を漕ぎ始めた。
「くそっ! くそっ!」
立ち上がって一心不乱にペダルを回し、肩は上下に大きく揺れ、次第に息が上がってゆく。
気付けば、口からは悪態ばかりが出ていた。
両親が離婚し、今は離れ離れに暮らす翔。
いつも完璧な兄と比べられ、兄に奪われ続けた。
俺から母さんを奪っただけでなく、萌奈香まで奪っていくというのか。
ハンドルに拳を打ちつけ、遠い空に翔を思い浮かべる。
「嫌だ! ぜってー渡さねぇ!」
16年間も片思いをしているんだ。萌奈香だけは譲れない。
ちょっとハスキーな声も、弾けるような笑顔も、全部愛している。
俺が辛いと思うときは常に傍らに居て励ましてくれた。あの誕生日に貰った言葉は今でも忘れられない。
月日を重ねるごとに彼女への思いは強くなるばかり。
息を吐き、高まり続ける心臓を一旦落ち着かせる。
そうして会話の内容を思い返していると、俺にも勝機があるのが分かった。
「次の期末までに1位とって萌奈香に告白するぞ!」
得意なゲームだけは、兄の翔にも勝てる見込みがあった。
現在のVRMMOの学区ランキング7位。
1位へのし上がるための俺の挑戦が今、始まったのだった。
───用語説明:
【VRMMO】
食に関する知識が途絶えることを懸念した政府が主導した国家プロジェクト。
当初の目論見とは異なり、優秀な人材を発掘・識別する社会的なツールとなる。
【学区ランキング】
学区ごとのサーバーが設けられ、その中でランキングを競う形となっている。
都市部の学区サーバーへの参加者は、社会人含め数十万人の規模となる。
【ドーム状の冷房空間】
地球温暖化の影響で、人々は外気に晒されての生活ができなくなった。
そのため、新しい生活インフラとして主要な行動圏内へ建設された。
【栄養ゼリー】
AIによるフルオートメーション化で、栄養が詰まったゼリーの生産が実現。
農作物との価格差が激しくなり、人々は栄養ゼリーしか摂取しなくなった。




