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妖精の声

作者: 大橋勇

まただ。

 僕は勉強机に向かいながら、部屋の隅に何かがいるのを感じた。

 僕は高校受験を控えていて、今がんばらなければ、志望校に受からなくなり、将来が決まってしまう。僕は勉強に集中しなければならなかった。

僕の四畳半の勉強部屋の隅から小さな、耳にかすかに聞こえる声で言葉が聞こえる。

「高校受験なんかしてないで、僕と遊んでよ。ユウちゃんは昔はよく遊んでくれたじゃないか?」

 「ユウちゃん」その呼び名は僕が優一と言う名前で、幼い頃から親しい友達は僕をユウちゃんと呼んできた。この声も僕の幼馴染みのひとりかもしれなかった。でも、誰であるかは特定できなかった。

「ユウちゃん」

僕は驚いた。その声は僕の耳元でしたからだ。左耳だ。そちらは窓しかない。僕は窓を見た。誰もいなかった。

「ここだよ、ユウちゃん」

僕は右を見た。

 マンガが置かれた本棚の前に男の子が体育座りで僕を見ていた。

「勉強、楽しい?」

僕は答えた。

「楽しくないよ」

「そんなことで青春の大事な時期を潰してしまうの?そんなことしてないで僕と遊ぼうよ」

僕は答えた。

「ダメだよ。あと数ヶ月の辛抱だ。受験に受かれば思いっきり遊べるんだ」

「キャッチボールをしようよ。昔はよくやってくれたじゃないか?」

「今は夜だろう?キャッチボールはできないよ」

「じゃあ、ゲームをしよう」

「ゲームは一日一時間と決められているんだ。だから・・・」

「誰が決めたの?お母さん?」

「そ、そうだよ」

「ユウちゃんはいつまでお母さんの言いなりなの?自立しなきゃダメだよ」

「うるさいな。今は勉強をする時間なんだよ」

「なぜ、勉強をするの?」

「し、知らないよ。でも中学三年生は高校受験するものなんだよ」

「なんだ、みんなと同じがいいんだ?中学卒業して、働けばいいんだよ。おカネがあるっていいよ。楽しいことが出来る。彼女をバイクの後ろに乗せて走るとか憧れない?ユウちゃんは高校に行って、何がしたいの?」

「わからないよ」

「だったら僕と遊ぼうよ」

僕は立ち上がって叫んだ。

「うるさい!おまえは誰だ!」

その男の子は姿を消してしまった。

 僕は自分に言い聞かせた。

「あと数ヶ月がんばったら、受験勉強は終わるんだ。そしたら、高校生活をエンジョイするんだ」

もう、それから、その男の子は姿を見せなかった。

僕は結局、第一志望の高校に合格した。ようやくホッとできた。その高校は地元では名門校で、僕はその高校にこだわっていたわけじゃないが、もしかしたら無意識のうちに親や先生たちの期待に応えたいと思っていたのかもしれなかった。

僕はもう完全な自由を手に入れ遊ぶことができると思った。その矢先、その高校から数学の宿題が出た。僕はうんざりした。

「なんなんだよ、そんなに僕たちから自由を奪いたいのかよ」

僕は完全に自由ではないと感じながら、宿題をして、友達と遊んだ。

 中卒で就職が決まっている奴らは、女の子を自転車の後ろに乗っけて僕たちに自分たちの自由を見せびらかせているようだった。

 完全な自由ってなんだ?




         ○


 僕は高校生になっても、遊ぶことができなかった。もう遊び方を忘れていた。

 僕は読書をしていた。将来は小説家になりたいと漠然と思っていた。

 僕の進んだ高校は進学校で、思っていたような自由はなく、数学以外も宿題がたくさん出た。学校はたしかに勉強をするところだ。しかし、なんのために僕は生きているのだろう?なんのための若さだろう?

 そんな僕には好きな人ができた。

 ヒロノさんという名前だ。

 彼女は美術部で絵を描いていた。

 僕が彼女の存在を知ったのは、彼女が僕の友達の友達だったからだった。僕も美術部に入ろうかと思ったが、彼女目当てに入ったと思われるのではないかと思ったために入らなかった。僕はいつも遠くから彼女を見ていた。

 僕はそんなふうに高校時代を過ごした。

 そして、高校二年生の秋頃から、周囲は大学受験の雰囲気になっていった。僕もなんとなくそんな雰囲気に飲まれて、大学を目指さなければならないと思った。僕の成績ならば一流の私立大学に行けると先生が言った。僕はその言葉に乗せられてその大学を目指すようになった。

 そんなときだった。

 また、あの声が聞こえてきた。

「ユウちゃん、君はエリートになるの?僕を置いていくの?」

僕は勉強しているとその声が聞こえた。

 どこにいても勉強をしているとその声は聞こえた。自分の勉強部屋、塾の自習室、学校の教室まで、その声が聞こえた。

 ある日、僕は自宅の四畳半の勉強部屋で受験勉強していると、その声がまた、左側の窓の方から聞こえた。

僕は窓を開けた。

外には誰もいなかった。

「開けてくれたね。ありがとう」

その声の主は、僕の部屋の中にいた。音楽プレイヤーの前にいた。

 僕は驚いた。彼、いや、彼女の姿がヒロノさんだったからだ。

ヒロノさんは言う。

「あたしね、優一君と遊びたいの」

「え?」

ヒロノさんは、いきなりシャツのボタンを外し始めた。

 僕は慌てて止めた。

「だ、ダメだよ。何をしてるんだよ?」

「ダメ、かな?あたし、優一君とエッチがしたいの」

僕は彼女の外す胸のボタンを見て生唾を飲み込んだ。シャツのボタンが外されると、白いブラジャーが露わになった。

「ダ、ダメだよ。ヒロノさん・・・」

「いいじゃない。したいんでしょ、優一君」

「したいけど・・・君、え?ヒロノさん?ニセモノだろう?」

「ニセモノでもいいでしょう?あたしのこの体は実体のある本物よ。ほら、触ってみて」

ヒロノさんは僕の手を握って胸に持って行こうとした。僕はその手を引っ込めた。

「ダ、ダメだって」

「したくないの?」

夏の制服を着た彼女は畳の上に横座りしている。スカートからは白い靴下を穿いた美しいピンクの足が見えている。

 ヒロノさんはそんな僕の視線を感じてか、スカートの裾をゆっくりとまくり上げていった。

「ダメだよ」

ヒロノさんは微笑んだ。

「本当にそう思う?」

スカートは捲られて太ももが露わになった。白い太ももにピンクが差している。ヒロノさんは更にスカートを人差し指一本で上に挙げていき、そのうち、白いパンツのゴムが見えるようになった。

「や、やめろよ。そ、そんなことしたら、僕・・・」

ヒロノさんは微笑んで言う。

「そんなことをしたら、どうなるの?僕・・・?」

彼女はスカートを持ち上げるのをそれ以上はせず、立ち上がって僕の方に近づいて来た。

ヒロノさんは僕の前で前屈みになった。僕は目のやり場に困った。間近にヒロノさんの胸の谷間があった。

「や、やめろよ。ダメだよ。そうだ、君はヒロノさんじゃない。ニセモノだ。ヒロノさんはそんなことしない」

そのとき部屋の引き戸をノックする音が聞こえた。

 お母さんだった。

「優一、紅茶を持ってきたわよ」

僕は慌ててヒロノさんの姿のこの何者かを、押し入れに閉じ込めて自分は机に向かった。

「いいよ、入って」

お母さんは引き戸を開けて入って来た。お盆には紅茶だけでなくショートケーキが載っていた。

「あんたが、がんばっているから、お母さん応援するわね」

「う、うん、ありがとう」

僕は押し入れが気になって仕方なかった。

 僕は勉強に集中していてお母さんが邪魔だというようなフリをした。お母さんは自分が勉強の邪魔になると悟って、部屋を出て行った。

 僕はそのまま押し入れを気にしながらも勉強を続けた。全く集中できなかった。僕はこれならば、押し入れのヒロノさんを出して、思う存分やったほうが、いいだろうという気がしてきた。僕は席を立ち、押し入れを開けた。そこにはヒロノさんの姿をしたあいつはいなかった。その日、それ以上、あいつは現れなかった。

 現実のヒロノさんは勉強ができ、学年でもトップクラスの成績だった。それに比べたら僕の成績など取るに足りないものだった。僕は焦った。ヒロノさんに負けたくない。負けず嫌いの僕は勉強に打ち込もうと思った。

 しかし、僕のそばにはもうひとりのヒロノさんがいた。いや、その姿はときどき僕の幼馴染みの姿になってこんなふうに声をかけてきた。

「ユウちゃん行かないで!エリートなんかにならないで!あたしたちを置いていかないで!」

幼馴染みの女の子の姿だった。

 勉強をしようとする度に彼女の声が聞こえた。部屋の隅、窓の外、天井裏。

 僕は勉強部屋で机に向かっていると、気が散って窓の外を見た。そこにはヒロノさんが制服姿で瓦屋根の上に立っていた。もう秋深い寒い夜だ。

 僕は急いで窓を開けて彼女を中に入れた。

「どうしたんだよ。おまえはまたヒロノさんの姿で来たな?おまえは誰だ?」

「それを考えるのはあなたの役目、あたしはただあなたの欲望を満たすためにいるの」

「欲望?」

「そう、欲望。ヒロノさんとしたいんでしょう?その欲望を叶えてあげる」

「おまえとエッチができるってことかよ」

「そういうこと」

「でも、本物じゃない」

「いいじゃない。本物じゃなくても。でもこの体は本物の女の子。興味あるでしょう?」

僕は生唾を飲み込んで、彼女の足の先から頭のてっぺんまで視線を移した。そうだ、本物のヒロノさんじゃなくても、本物のヒロノさんと同じ体をしている。やるならば同じ楽しみが味わえる。ああ、ダメだ。僕は何を考えているんだ。

「おまえが僕の欲望を叶えてくれるならば、僕は本物のヒロノさんと付き合ってみたい。叶えてくれるか?」

ニセモノのヒロノさんは笑顔で頷いた。

「もちろん」

ヒロノさんの姿のそいつは窓を開けて屋根の上に立った。

「おいで、ヒロノの家に行こう」

「家に?どうやって?」

「飛んでいくのさ」

「おまえ、何者だ?」

「あたしは、妖精」

「妖精?」

「さあ、行くぞ」

妖精は部屋の中の僕に手を差し伸べた。

 僕は制服姿の彼女に訊いた。

「そんな姿で寒くないか?」

「妖精は寒さを感じない」

僕はコートを着て窓から屋根の上に出た。

 妖精は僕の手を取って言った。

「じゃあ、行くぞ」

妖精の背中にはトンボのような羽根が生えて僕を手でぶら下げて夜空に飛び立った。

「うわああああ」

一瞬にして僕の住んでいる住宅街が下の方に輝く夜景となった。

 夜空には月があった。

 僕の住んでいる地方は田んぼと住宅地が半々くらいの面積を占めていたので、大地は住宅地の夜景と、田んぼの闇で構成されていた。

 僕にとって、そんな故郷の空を飛ぶなどもちろん生まれて初めてのことだった。

 妖精は僕をヒロノさんの家まで連れて行くと言う。僕はヒロノさんとは話をしたことさえない。当然家を知らない。ヒロノさんはたぶん今頃、勉強しているだろう。僕は勉強の邪魔をしたら嫌われるだろうな、などと思った。そして妖精に言った。

「ヒロノさんに会うわけじゃないだろう?」

妖精は笑った。

「どうしたい?彼女とエッチが出来るように仕向けてやろうか?」

「いや、いい、おまえの手は借りない」

「そうか、わかった。ほら、あの家だ」

それは丘の上にある住宅地の端の家だ。

 僕の予想通り、ヒロノさんは、裕福な家庭の子のようだ。この丘の上にはこの地方では裕福な人々が住むからだ。僕は妖精に連れられて彼女の部屋を見に行った。カーテンは開いていた。しかし、窓の中は暗く電気が灯っていなかった。

「ここはたしかに彼女の部屋なのか?」

僕が訊くと妖精が答えた。

「今はいないようだな。ん?別の所から女の声がしないか?」

「え?」

僕が耳をすますと、女の話す声が下の方から響いてきた。これはあきらかに風呂にいると思われる声の響きだった。

僕は言った。

「お風呂にいるのか」

「覗いてみよう」

妖精は有無を言わさず、僕をその家の浴室の窓の外まで連れて行った。

 浴室からはヒロノさんの声が聞こえてきた。

妖精は窓から覗いて、覗くのを躊躇っている僕に言う。

「おや?ひとりではないようだぞ」

「え?」

僕は猜疑心からか、窓を覗いてみなければならないと思って覗いてみた。中には裸の女がふたりいた。ひとりは四十代、もうひとりは十代、十代がヒロノさんで、四十代がたぶんお母さんだろう。僕はどういうことかと思って覗きながら聞き耳を立てた。

 ヒロノさんはお母さんの背中を流していた。

「ありがとうね、ヒロノ。あんたには苦労かけるね。あたしの体がもうちょっと自由ならばいいのに。それにあなたがなんでもやることはないのよ。今は福祉の環境が整っているから、わざわざ、あなたが私のお風呂の介助をしてくれる必要はないのよ」

「お母さん。これはお母さんへのお礼なの。私をここまで育ててくれた。お父さんと話して決めたの。お母さんの分も私たちでがんばろうって」

「でも、あなたは受験生でしょう?本来は勉強に集中しなければいけない年なのに」

「私ね、お母さんのできない家事を手伝うことが勉強にも役に立っていると思うの。だから、お母さんは私の勉強のことは気にしなくていいのよ」

 僕は黙って浴室の中のヒロノを見つめていた。もう彼女が裸であるということなど忘れていた。ヒロノの母を介助する姿を見て、僕は自分が情けなくなった。自分は最低だと思った。

 僕は妖精に言った。

「帰ろう。もう充分だ」

ヒロノの姿をした妖精は羽根を羽ばたかせて、空に舞い上がった。

 僕は家に着くと窓から自分の部屋に入り、床に座った。目の前にヒロノの姿をした妖精が誘惑的に横座りをしている。

 僕は妖精に言った。

「おい」

妖精はビクッとして僕の眼を見た。

「その姿をやめろ。ムカつく」

妖精は姿を変えて、僕の姿になった。

 僕は妖精に言った。

「もう、僕の前から消えてくれないか?」

「なぜだ?」

「おまえは僕に必要ない。邪魔な存在だ」

「そうか、わかった」

妖精は徐々に透明になっていき、そのうち虚空に溶けるように消えてしまった。

 僕は畳の上に寝転がり天井を見た。

 そして、ゆっくりと起き上がり、机に向かって勉強を始めた。

                                     (了)


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