グランサイクルinJapan 4日目 長野
現在総合順位
1位 富田慧 チーム・ワルツ
着 マイヨ・ジャム
2位 立花迅 チーム・ワルツ
着 マイヨ・パター
3位 フェミレア・ルーカ リング・ムーサン
着 マイヨ・モント
4位 佐伯真 リバース
5位 原結 チーム・ワルツ
長野の朝は静かで冷たかった。霧が地面すれすれに漂い、遠くの山々はその白い薄衣に身を包んでいた。「グランサイクル in Japan」、4日目。今日のステージは標高差の激しい本格的な山岳コースだ。容赦のない勾配と長い距離。選手たちの身体だけでなく、精神も削る一日が始まろうとしていた。
チーム・ワルツのバスの中には、これまでになく張り詰めた空気が漂っていた。サイクルコンピューターの設定を確認する音、エナジージェルのパッケージを開ける音、少しでも体力を節約するため、寝ている者の鼾の音。誰も言葉を発さず、だが誰もが胸の奥に今日のコースの厳しさを刻み込んでいた。その沈黙を破ったのは、キャプテン・原さんの落ち着いた声だった。
「今日は厳しいコースだ。しかし富田、迅……君たちなら、やれる。全員で支え合って、総合優勝を目指そう」
声に感情はなかった。だが、その冷静さが逆に熱を帯びて感じられた。僕は、胸の奥に浮かびかけていた迷いや不安を振り払うように、背筋を伸ばし、大きな声で答えた。
「はい、頑張ります!」
山々がその声を吸い込み、どこかへ運んでいった。
レースが始まると、すぐにコースは山の中へと入っていった。斜度は一定ではなく、緩急を繰り返しながら選手の体力を蝕む。山道の両側にはまだ雪の残る影も見え、春と冬の境目を走るような感覚すらあった。僕たちは、いつものように富田さんを中心としたフォーメーションを組み、上り坂へと挑んでいた。ワルツは、総合優勝を目指すための形を保ち続けていた。だが、それはあまりにも突然のことだった。
コース中盤、緩やかな下りを抜けた直後のテクニカルなS字カーブ。複数の選手がスピードを保ったまま進入したその瞬間、集団前方で接触が起きた。次の瞬間、富田さんが弾かれるようにバランスを崩し、路面に叩きつけられた。重い音が、空気を引き裂いた。
「富田さん!」
僕は叫び、ブレーキをかけてすぐに駆け寄った。他のチームメイトたちも、次々にバイクを止めて富田さんのもとに集まる。彼はうつ伏せで地面に倒れ込み、左肩を押さえていた。表情は歪んでいたが、声を上げることはなかった。彼の痛みの深さは、沈黙の中に滲んでいた。医療スタッフがすぐに駆けつけ、応急処置が始まる。やがて肩を固定するバンドが巻かれ、医師が静かに首を横に振った。昨日の不調は偶然ではなかったのだ。すでに体は限界に達していたのかもしれない。それでも走り続けていた彼の姿を思い出し、僕は胸を締め付けられるような思いに襲われた。
「すまない……だが、大丈夫だ、迅」
富田さんは息を詰まらせながらも、僕の目をまっすぐに見つめて言った。
「お前が、このチームを引っ張っていけ」
「でも……富田さん」
言葉が詰まった。リーダーを失った穴は大きく、すぐに埋まるものではない。それを引き継げと言われたとしても、僕にはまだ……
「お前ならできる。……俺の分も、頑張ってくれ」
言葉に迷いはなかった。苦しみに顔を歪めながらも、富田さんは笑っていた。あのときと同じ笑顔だった。僕が初めてエースを任されたレースで、背中を押してくれたあの日と、何一つ変わらなかった。僕は、心の底から絞り出すように頷いた。その時、原さんが僕の肩に手を置いた。
「迅、今のお前の総合順位と、これからのステージ構成を考えれば……お前が総合優勝を狙うべきだ。今、このチームのエースはお前だ」
彼の言葉には、一切の感傷がなかった。選択ではなく、判断だった。状況を見極め、最善を選び取る、それが彼の役目だった。
「分かりました、原さん。……富田さんのお見舞いに、総合優勝をプレゼントしましょう」
その瞬間、僕の心には、はっきりとした覚悟が芽生えていた。富田さんがいない今、チーム・ワルツは再編を余儀なくされた。原さんはアシストにまわり、全員が僕を支える体制へとシフトした。それは、決して軽いものではない。だが、だからこそ、踏み込まなければならなかった。彼らの期待と信頼を背負う覚悟とともに。僕は再びバイクにまたがり、山を登る。ペースを刻み、リズムを崩さず、ただひたすらに前を見据えた。先頭集団とのタイム差はおよそ3分。スプリンターたちは既に後方に沈み、今前方にいるのは、間違いなくルーカと真さん。ここで追いつけるかどうかが、総合争いの今後を左右する。
ワルツのアシストたちは、僕の周囲を鉄壁のように固めた。原さんも前に出て、風を切ってくれた。やがて、山頂が近づくにつれ、タイム差はみるみる縮まっていった。息が荒くなる。脚が焼けつく。だが——止まることはなかった。
山の頂に辿り着いたとき、僕は確かにルーカと真さんの集団に追いついていた。
ステージはそのまま終盤を迎え、僕はトップグループの一角としてゴールを切った。順位こそ決定的な変動はなかったが、富田さん不在の中でチーム・ワルツが崩れなかったという事実は、何よりも大きな意味を持っていた。
レース終了後の空気は、静かだった。だがその静けさは敗北のそれではない。むしろ、何か新しいものが始まったのだという確かな予感が、胸の奥で鼓動を打っていた。
ワルツの中心が、確かに僕へと移った。
その責任の重さを、僕はただ真っすぐに受け止めていた。
5話完読ありがとうございました!!!!!
ステージ結果
1位 佐伯真 リバース
2位 フェミレア・ルーカ リング・ムーサン
8位 立花迅 チーム・ワルツ
9位 原結 チーム・ワルツ
リタイア 富田慧 チーム・ワルツ
次回予告
グランサイクルinJapan 伊豆