第七十二話 ブチギレ
「あっ──」
思わず声を漏らしたのは奈菜の方だった。
どつきあうと宣言したとはいえ、流石に顔面への直撃はやりすぎだったかもしれない、と一瞬だけ我に返る。
だが、その拳はしっかりと和美の顔面を捉え、反動で和美の身体は家を囲む塀に激しく叩きつけられた。
奈菜の口元には、抑えきれずに笑みが浮かぶ。──遠慮のない一撃を決めてしまった、という快感。
しかし、呆けている暇はない。
和美は背中で塀を蹴り、バネのように跳ね返って距離を詰めた。起き上がりかけの奈菜へ、鋭い膝蹴りを突き上げる。
「想定内!」
奈菜は咄嗟に両手で膝を受け止め、その衝撃を利用して宙に舞った。
華麗にバク転し、軽やかに着地。そのまま間髪入れずに駆け出す。
身体を後ろに倒し込むような体勢──狙いは足元。スライディング。
素早すぎる動きに和美の視線はわずかに遅れ、見事に足を掬われて前のめりに倒れ込んだ。
スライディングから跳ね上がる奈菜。地面を叩きつけ、その反動で宙に飛び上がる。
スローモーションのように、倒れる和美の横を錐揉み回転で舞い上がる奈菜。回転を止めると同時に、彼女の手が和美の後頭部を掴み取った。
「お返しや!」
顔面を殴ったことをやり過ぎだと一瞬思ったことなど、どこへ消えたのか。奈菜はそのまま和美の顔を地面へ叩きつけようとする。
お返しなら先に顔面を殴られた。そう口に出す余裕すらなく、和美は地面へ手をつくのが精一杯だった。顔面が着地するより先に両手がアスファルトに届き、逆立ちのような体勢に。その反動を使い、折り曲げた足で奈菜を蹴り飛ばす。
スコーピオンキックに似たその一撃。和美自身に蹴り技の名前を意識する余裕はなかった。
蹴りを受けた奈菜の身体は宙を転がり、前方へ吹き飛ばされる。
和美は倒れ込んだ両手をさらに押し込み、身体を地面すれすれに滑らせて奈菜を追う。鬼の力に裏打ちされた異様な身体能力。剣道では決して教わらない身体の動きだ。
だが、決め手とするのはあくまで剣。
滑走の勢いで立ち上がりざま、和美は抜き放った白刃を振るう。
印を刻む間など無い。手を揺らす間など無い。
迫り来る白刃。咄嗟に出した腕。飛び散る血飛沫。
「ッッッッッアアアアアア!!」
言葉にならない悲鳴。熱が先に来て、痛みがその後を追い、瞬く間に冷たさへと変わっていく。
「に、西生さんっっ!!」
二階の壊れた窓から身を乗り出す矢附と笠原が、悲鳴のように声を上げる。
「ど、どつきあおうって言うたのに……腕斬るとか、笑えんセンスしてるな、和美……」
地面に叩きつけられ、うつ伏せに倒れる奈菜。
右腕は肘から先を切り落とされ、血が溢れ出て止まらない。認知の問題で錯覚だと頭では理解していても、斬られた瞬間を見てしまえば、否定などできなかった。
「ごめんね、奈菜。私も本気でやるなら、やっぱり慣れ親しんだ剣の道を選ばないと」
和美は血を浴びた白刃を振り払い、赤い飛沫がジュッと音を立ててアスファルトに焼き付いた。
「ええよ、本気やもんな、仕方ない……本気でぶつかるんやもんな……」
奈菜は苦笑いを浮かべ、すぐさま怒鳴り返す。
「なんて言うか、ボケっ! めちゃくちゃ痛いっちゅうねん! 許さへんからなっ!」
左手一本でどうにか身体を起こし、立ち上がる奈菜。その姿を、和美は静かに構えて見つめていた。
「西生さんっ! 高城さんっ! もうやめて!!」
矢附が必死に声を張り上げる。しかし、二人は一瞥すらくれない。やめるという選択肢は、もはや存在しなかった。
いや、最初から存在しなかったのかもしれない。和美の内に鬼の力が芽生えた時点で、彼女たちは対決する運命にあったのだろう。
「もう友達の心をどうにか癒そうとか、別の方法を探そうとか……そういうのはやめや。ここまでやられたら、ウチかてキレへんわけない。ブチギレもブチギレや! もう我が儘なんか言わさへん、やりたいことなんもさせへんからな、和美!!」
奈菜は左手で印を刻む。足元に光が広がり、制服が巫女装束へと変わる。
「そっちが剣の道なら、こっちは西生の道──祓い師の道や。鬼として相手したる。覚悟しいや!」
光は波を打ち、蛇のようにうねって地面を這う。和美が反応しようとしたとき、すでに足首には光の鎖が絡みついていた。
「あのスライディング……!」
「そういうこと!」
和美はすぐさま白刃で鎖を断ち切る。しかし光の蛇はさらに伸び、アスファルトに転がる奈菜の右腕を掴み上げた。
「ロケットパーンチっ!!」
奈菜の叫びと同時に、光に掴まれた右腕が和美めがけて投げつけられる。
「グロいっ!」
和美は迫る右腕を斬り払おうと、白刃を大きく振り上げた。斜めに、鋭いアッパースイング。
「なんて、うっそぉ!」
斬撃が届く直前、右腕はヨーヨーのように引き戻される。切断面には光の糸が伸びていて、弾丸のように腕は奈菜の元へ舞い戻った。
振り上げた和美の体勢はがら空き。奈菜は踏み込みざまに腕を接合させ、そのまま左手を突き出す。掌に纏うは光。イメージするは「押し当てる」。
懐に潜り込み、放つのはゆっくりとした一打。
──発勁。
押し当てた光が渦を巻き、螺旋となって爆ぜる。
重い衝撃が和美の身体を貫いた。




