第六十九話 悪手
奈菜達が坂道を降る中、顎は小鬼を押し退けながら屋上に辿り着いていた。任された横宮は二階職員室に連れ入れ、簡易の結界を張って保護する。小鬼程度なら、せいぜい小一時間は耐えられるだろう――そう思う間も、体中の神経は張り詰めていた。
屋上への扉を押す。金属が軋む音が風に混ざる。立ち入り禁止の境界線として設置された鉄板一枚に過ぎぬ扉は、あまりにも頼りない。
一歩踏み出すと、顎の周囲の世界が瞬時に飲み込まれる感覚に襲われた。屋上に吹く風、太陽に映る自分の影、そして──目の前に立つ小早志真理亜。緑の炎が瞳に揺れ、じっと顎を見据えている。
世界が、ゆっくりと、しかし確実に裂けていく。
弟のように信じ、守ろうとした人々はもう戻らない。
喪失の痛みが胸の奥で静かに燃え広がり、身体中の血がざわめく。
「殺す」――その言葉は声ではなく、心の奥底に穿たれた穴を埋める鉄槌のように響いた。
怒り、悲しみ、喪失、希望の破片。絡み合う感情が世界の色彩を青と赤に揺らめかせる。あらゆる声が、あらゆる音が、小早志真理亜だけの響きとして屋上を支配する。
──これは、私の穴を埋める力。誰のためでもない、私自身のための力だ。
「オイオイオイ、オイオイオイオイ! 嘘だろ、冗談だろ!? 祓い師って奴らは、人間の感情から生まれた鬼と戦い続けてきた一族じゃなかったのか? 本家だか分家だか知らんが、君だってそうやって人間の感情と戦い続けてきたんだろう? なのに、こんな悪手をかましてくるのか!? 人の感情がわからないのか? オイオイオイ、いい加減にしてくれよ。笑えない冗談だぜ。なんで、君が──《笠沼正太を祓った君》が、彼女の前に現れるんだ!? 正気の沙汰か、オイ!!」
斎藤の怒声は屋上の風と混ざり、世界をねじ曲げる。顎の感覚は身体を貫くように圧迫され、吐き気と戦慄が同時に押し寄せる。視界の端で小早志の瞳が揺れ、緑の炎が揺らめく。
嗚呼、こいつを殺せたなら、私の埋まらない穴はどうなるのだろうか――?
小早志の絶叫が、屋上に鳴り響く。
「殺す殺す殺す、殺せぇぇぇぇぇっっっ!!」
その声に呼応するように、影の中から無数の腕が蠢き、屋上の隅々を支配する。五感が侵され、身体中の神経が焼けるように痛む。息が詰まり、目の前の風景は赤と青の渦に覆われる。
「あーあ、君のせいだよ。それと考えなしに任せた西生奈菜のせい。小早志さんはね、正太君の残滓で力を行使してただけだったんだよ。本当なら、時間が経つか西生さんが来て話すだけで治まってた。彼女の憂さを晴らすだけで良かったのに、君が来たせいで済まなくなった。──ああ、見ろよ。最悪だ、まさに最悪だ。小早志真理亜は覚醒した。高城和美よりも早く、凶悪に覚醒しちまった!」
「──煩い」
無力な世界に、一つの音が穿たれる。
身体の内側で空洞が広がり、涙と血の熱が交錯する。
弟のように思った人々も、守ろうとした思いも、すべて穴に飲み込まれた。
しかし、穴の奥に灯る緑の炎が小早志真理亜を突き動かす。怒り、悲しみ、希望の欠片が絡み合い、世界を揺さぶる。
小早志が手を横に払う。その一撃は烈風を巻き起こし、屋上フェンスを切り裂き、コンクリートを抉り、斎藤の姿を掻き消した。
顎の視界に、斎藤の姿が瞬間消える。屋上が裂け、世界が歪む。
「な・・・・・・」
声が漏れる。最大級の危険を誇るはずの斎藤が、一瞬で掻き消された。絶望的な破壊力が、目の前で生きている。心臓は脈打ち、呼吸は浅くなる。足元が崩れる感覚、腕を貫く冷たい影……世界が異形の恐怖に塗り潰される。
「
」
小早志は叫んでいる。顎にはその言葉の意味は届かない。全身に、色とりどりの鬼の腕が突き刺さる。五感は遮断され、意識は心臓の脈打ちだけに集中する。
「・・・・・・あーあ、だから最悪だって言ったのに」
赤と青の渦に混じり、掻き消されたはずの斎藤の残骸が集まり出す。元の姿を形作るその様は、死と再生が入り混じった悪夢そのもの。
「こういう覚醒の仕方しちゃうとさ、鬼同士でも制御できないんだよ。あーあ、本当さ、やっちゃったよねぇ、君達。って、もう聞こえ──ありゃりゃ、それは可哀想だよ、小早志さん」
斎藤がわざとらしく手で目を塞ぐ。しかし小早志の罵声は無数の声に混ざり、意味は顎に届かない。
小早志は顎の心臓を拾い上げ、紫の鬼の口に投げ込む。顎は完全に飲み込まれ、世界の感覚は消え失せた。




