第六十八話 坂道を降りよう
「それじゃあ行こうか」
奈菜が声をかけたところで、横宮が慌てて制止した。
「行こうかって……どこに? もうチャイムも鳴って、その……」
授業が始まると言いかけた横宮だが、口をつぐむ。授業どころではない。教師として生徒に声をかけようにも、目玉に腕の生えた異形が校内を埋め尽くしている状況で、掛けられる言葉など思いつかなかった。
「サボってる不登校生徒を呼びに行ってきます」
奈菜はそれだけ言い残し、廊下を駆け出す。矢附と笠原も頭を下げて、その後に続いた。
「ではまず、安全な場所を確保しましょう、先生」
顎にそう言われ、横宮は返事に詰まりながらも頷いた。もはや何が起きているのか理解できない。ただ、誰も説明してくれる気配がない以上、この男に任せるしかないのだと悟った。
顎は金の錫杖を軽く持ち上げ、廊下に叩きつける。
──寺の鐘を間近で鳴らされたかのような、腹の底に響く重低音。
波紋が空気を揺らし、床も壁も水面のように歪み、小鬼たちはその波に呑まれて消えていった。
「じゃあ矢附さん、案内はお願いします」
足早に校門へとたどり着く三人。道中の小鬼は顎の波紋に押し返され、進路が開けていた。
「案内はもちろんしますけど……西生さん、ここから先はどうやって進むんですか?」
矢附が坂の方を指差す。木々の影から無数の腕が伸び、生徒たちを怯えさせていた。顎の力で生じた隙間を縫い、逃げる者もいる。だが坂道では既に足止めを食らっている生徒が群れを成していた。
「顎さんがおる分、学校の方が安全やのにな」
奈菜の口調に自然と関西訛りが混じる。
「戻った方がいいって言っても、誰も聞いてくれないよね」
後続の生徒にぶつかられ、転びそうになる笠原。抗議しようとしたが、相手は振り返りもせず走り去っていった。
「せやね。他の生徒は一旦無視や。考えるべきは即時解決、和美のとこ行くのが優先や」
「それで……くどいようですけど、どうやって進むんです?」
矢附の疑念は尽きない。狙われているのは奈菜であり、彼女は力を封じられている──そのはずだった。
「正直、数分前までは気合いで突っ切るつもりやった。でも顎さんのやり方見て、試せそうな案が浮かんでん」
奈菜は「ピコーン」と擬音を添えて、頭の横に電球が灯った真似をしてみせた。だが矢附も笠原も、テンションの急変に戸惑い笑えない。
「ちょっと和ませようとしたウチの気遣い、スルーすんなや。……まぁええわ。で、その案ってのは──顎さんのやり方を真似る」
そう言って奈菜は両手で複雑な印を結んだ。矢附と笠原には、まるでグーチョキパーを忙しなく繰り返しているようにしか見えない。
「西生の力とは別に、お婆が余談やって言いながら修練の合間に教えてくれた術があってな。持つべきものは優秀な姉、ってやつや。劣等感に押されながらも取り入れてきた自分を褒めたろ思うわ」
奈菜の手に淡い光が集まる。到底追いつけないと思った姉の背に、必死に伸ばした手。それが今ようやく役に立とうとしていた。
「祓いはできへんけど、押し返して時間稼ぎくらいにはなる。矢附、笠原、離れたらあかんで」
二人は緊張を呑み込み、力強く頷く。
「ほな行こか」
奈菜が先陣を切る。坂道は一本道、和美の家までは迷わない。
速度を合わせながら小鬼を払いのける奈菜。掌底で影を叩き返し、手刀で裂き、やがて両足にも光を纏わせる。
道端で怯えた生徒を引き起こし、赤い小鬼を蹴り飛ばす。矢附は安全な方向を示し、笠原は新手の気配を矢継ぎ早に報告する。
「顎さん、はよどうにかしてくれへんかなぁ……」
まだ坂の半分。小鬼の群れ、慣れぬ術、削れていく体力──奈菜は先を見通せずにいた。




