第五十九話 鬼の残滓
四階、図書室の前に着いて、笠原がドアに手をかける。鍵はかかっていなかった。
それを確認した笠原は、後ろの矢附に軽く目配せする。人を探しに来ただけなのに、なぜか音を立ててはいけないような気がして、矢附は無言で頷いた。
その気遣いに気づくこともなく、笠原は「ガラガラ」と大きな音を立ててドアを開けた。どうやら立て付けが悪くなっているようだ。
「西生さん、いる?」
入るなり、図書室内に向けて笠原が声をかける。
図書室は教室二つ分ほどの広さで、入り口すぐには貸出受付用のカウンターがある。
矢附のイメージでは、図書委員の仕事といえば、本棚の整理か、カウンターで貸出手続きをするくらいのものだった。
期限が過ぎた貸出本があると、生徒に返却を促しに行くという話は聞いたことがある。が、実際にそうされている生徒を見たことはない。
それは図書委員の怠慢か、それとも図書室自体の不人気のせいなのか。
「若者の活字離れ」と言われて久しいが、そもそもこの図書室は放課後にしか利用できず、貸出期限も一週間と短いため、利便性の面でも魅力が薄い。
笠原の呼びかけに対する返事はなかった。
静寂が続き、二人は顔を見合わせてから、視線を室内の奥へと向けた。
返事はないが、図書室は無人ではなかった。
窓際の席に女生徒が一人、静かに腰掛けて外を見ている。
その窓の外には背の高い木々が連なり、丘の上に建つこの高校からは、木々の向こうに町並みがうっすらと見えた。
自然を眺めて癒されている、という雰囲気には見えなかった。どこか空虚で、現実から乖離したような横顔。
心ここにあらず──そんな印象を受けた。
もしかすると、笠原の声も届いていなかったのかもしれない。
「あのー、ごめんね。朝の時間は、図書室は利用不可なんだけど」
笠原が声をかけながら、女生徒に近づく。矢附もそれに続いた。
覗き込むように顔をのぞかせ、笠原はその女生徒が図書委員ではないことを確認する。
図書委員は学年ごとに四人、一クラス一人で、全学年あわせて十二人。
笠原自身は活動にあまり真面目ではないため、他学年どころか同学年の委員の顔すら曖昧だった。
それでも、一度だけ顔合わせで全員が集まったとき、この女生徒の姿は見なかった。つまり、委員ではない。
その女生徒が、ゆっくりと笠原の方に顔を向けた。
片目を隠すほど垂れ下がった茶色の前髪が、開いた窓から入り込んだ風に揺れている。
「西生さんなら、いませんよ」
図書室の利用については意に介していないようだったが、その口調は妙に落ち着いていた。
笠原は内心で眉をひそめた。普段なら、利用時間など気にもしないのに、なぜか図書室にいるとルールを守らせたくなる。
制服の襟元のラインから、女生徒が一年生だと気づく。一年生は青、二年生は赤、三年生は緑──入学年ごとに色が変わる決まりだ。
彼女には笠原が先輩であることは明白なはずだ。にもかかわらず、この態度。
無視された──そう思うと、笠原の苛立ちは一気に膨れ上がった。
今にも怒鳴りつけて、上下関係というものを叩き込んでやろうかという衝動がこみ上げる。
「──笠原さん」
その言葉が喉元まで出かけたとき、矢附の声が笠原を制止した。
すぐ横に立つ矢附が、首を横に振っている。異様な怒りを察知したのだろう。
「……ごめん。ありがとう」
笠原は大きく息を吐き、無理やり怒りを鎮める。
自分でも異常な苛立ちだったとわかっていた。
どこかで見たような、他人の怒り──それが、自分の内側から再現されているようだった。
あの怒りは、もう消えたはず。忘れたはず。
そう思っていた。そう認識していた。なのに、なぜ自分が今、それに呑まれそうになったのだろう。
「──鬼、ですよね、それ」
答えを返したのは、女生徒だった。
「鬼?」
聞き慣れない言葉ではなかった。
だが、その言い方に込められた確信めいた響きに、笠原も矢附も思わず目を見開く。
「先輩は何色の鬼に出会ったんですか? きっと、その“残滓”みたいなものが、身体にこびりついてるんですよ」
女生徒は、両腕を抱くように撫でながらそう言った。
その動作には、どこか儚く、しかし愛おしさすら含んだような奇妙な優しさがあった。
「せっかくのご縁です。……お話、聞かせていただけませんか? 私は、小早志真理亜です。一年生です。襟のラインで分かるかと思いますけど。緑色の鬼になった子を知っています。その子……殺されました」
殺された──。
その言葉に、矢附も笠原も反射的に小早志を見た。
その表情には、深い悲しみがにじんでいる。だが、同時に何かを慈しむような温もりもある。
矢附と笠原の中にも、“鬼”という言葉に反応する感覚はあった。
ぼんやりとした記憶。輪郭の曖昧な、それでも確かな体験。
そこにあったのは「恐怖」ではなく、「救われた」という実感だった。
「──無かったことに、してもらえたようですね」
静かに言った小早志の声に、二人は言葉を失った。
彼女の中には、「助けられた」という記憶はない。
そこにあるのは、失われた命と、それを取り巻く痛みだけだった。




