第五十八話 矢附と笠原
笠原が先頭を歩き、それに続く形で矢附は図書室へと向かった。
図書室は何度か利用したことがあるし、二年間通っている校舎内のことなので道案内など必要なかったが、笠原の好意を素直に受け取ることにした。
「答えにくかったら無理に言わなくていいけど……矢附さんは、どうして西生さんを探してるの? しかも、こんな朝早くから?」
確かに、放課後に他クラスの生徒を探すのは困難なことも多い。だが、朝の慌ただしい時間帯に人を探すのは、よほどの急ぎでもない限り避けるのが普通だ。休み時間などに教室を訪れる方が、確実で手っ取り早い。
「あの、その……笠原さんは、最近の日々に何か違和感みたいなものを感じたりしてない?」
「……違和感?」
二階の廊下を進み、二年生の教室群から離れ、職員室を通り過ぎた先。
その奥にある階段を登りながら、笠原は後ろを振り返ることなく問い返してきた。曖昧で掴みどころのない問いに、彼女も戸惑っているようだった。矢附のことは「瀬名の友人」程度の情報しか持っておらず、まだ探り合いの段階なのだろう。
「あ、うん……ごめんね。急に変な話して……。私ね、瀬名さんと、そこまで仲良くなかった気がしてるの。登下校を一緒にしてるけど、それも友達としてっていうより、義務的というか……。今朝ね、佐村さんたちに挨拶されたんだけど、それを笑顔で返した自分にすごく違和感があって……」
「うーん……もしかして、裏サイトとか、知らないうちにSNSのグループから外されてたとか……そういうの見ちゃったとか?」
小学校高学年くらいから始まりがちな、いわゆる“裏垢”文化。
仲良く見える二人組が陰では互いを悪く言っていた、なんて話は日常茶飯事で──それは高校生になっても変わらない。
むしろ、高校生になる頃には、続ける側と飽きて離れていく側にはっきり分かれてくる。そして、初めてそれを目の当たりにした人は、たいてい大きく傷つく。
怒りに身を任せ、他人を傷つけてしまう姿──あの異様な光景を、笠原は思い出していた。
SNSに関する相談を西生が受けているとは思えなかった。けれど、あの光景に関わることなら、彼女は案外、適任なのかもしれない。
そう思ったとき、不思議とその考えに違和感はなかった。
「ああ、ううん……そういうことじゃないの。今朝のこととか……瀬名さんが優しくて、佐村さんたちも良い子で、そういうのはきっと喜ぶべきことなんだと思う。だけど、なんだろう……都合が良すぎるというか……。目の前にあるこの“良い日常”よりも、私が手にしなかった何かの方が本当のことみたいで……。それから目を背けてるような、そんな感じがして──」
言葉を探すように、矢附はぽつりぽつりと感情を整理していく。
笠原はそれを聞きながら、四階へと続く階段の踊り場で、ふと立ち止まった。
「……違和感、か。矢附さんの言いたいこと、何となくだけど分かってきた気がする。私もたぶん、何かから目を背けようとしてたのかもしれない」
笠原は振り返り、顔の前で手を開いたり握ったりを繰り返した。
「……笠原さん、何してるの?」
その動作に不思議な緊張感があった。
指と指が擦れる音。ギチギチと鳴る筋肉。握り拳に込められる微妙な力。まるで誰かを殴るための準備運動のようだった。
「私、放課後にバイトしてるんだけどね。その職場、すごく良いところなんだよ。みんな優しくてさ。でもね……優しくされるたびに、なぜかこういう握り拳が頭に浮かんじゃうの。自分では、上手く仕事ができないことに対する苛立ち……怒りかな、って思ってたんだけど……。なんか、それもしっくりこなくて」
その感情は怒りではなく、恐れだった。
違和感に気づいていながら、彼女はそれを見ないふりをしていた。職場が円満なら、それでいいと思おうとしていた。
「矢附さんが言う通り、都合が良すぎるんだろうね。何か、大事な感情を無視してる感じがする。……うまく言えないけど」
「それが何を意味してて、どこがおかしいのか……まだはっきりとは分からない。でも、そのぼんやりした違和感の中で、不思議と西生さんの顔が浮かんだの。それで、探そうと思って──」
もう一人、思い出せない人がいる。
そう言おうとして、矢附は口を閉じた。
笠原は今、感情と思考の整理に精一杯のようだった。
とりとめのない話を、ここまで真剣に聞いてくれただけでも十分だった。彼女の頷きが、矢附を救っていた。
この胸にあるざらついた違和感は、ただの感情の起伏なんかじゃない。
もっと大きな“何か”が自分たちに迫っている──そんな不確かな確信が、記憶の底で鈍く警鐘を鳴らしていた。
独りでは心細い。でも、誰かと一緒なら、目を向けられるかもしれない。
「分かったよ、矢附さん。私も、本気で西生さんを探す。……彼女なら、きっとこの違和感や不安の正体を知ってる気がする」
おーし、と小さく気合を入れて、笠原は再び階段を登りはじめた。
その背中に、矢附はかつて自分に手を差し伸べてくれた《誰か》の姿を重ねた。
瀬名や佐村が笑顔で挨拶をしてくれるよりもずっと嬉しかった。
それは、あの《何か》に、確かに似ていた。




