第三十九話 認識
手首を折られても意に介さず、赤い鬼は仰向けに倒れたまま、掴まっている奈菜ごと腕を振り上げた。奈菜が手足をほどこうとするも間に合わず、そのまま地面へと叩きつけられる。
背中から地を打った衝撃に呻き、奈菜は掴んだ腕を離す。すぐさまもう一度、鬼の腕が振り下ろされた。
「オレ達に間接技? よーわからん戦い方しよるな。こちとら意識の存在やぞ。骨折られて意味あるかいっ」
赤い鬼は笑いながら、またも腕を振り上げ――ぶらりと垂れた手首を見て、急に顔を歪ませた。
「あ、あれ……? 手首……痛っ……な、なんや、これ……痛いやんけッ……ッァアアアア!」
赤い鬼が絶叫した。手首を庇うようにもう片方の手で握るが、それがさらに痛みを誘い、地面でのたうち回る。
「い、意識の……存在やったら……意識させたったら……ええねん」
背中から吐き出された空気をようやく吸い込み、奈菜は乱れた呼吸のまま呟く。
両手に光を纏わせると、そこから放たれた細い糸のような光が地面を這い、支店長へと絡んだ。光の糸は彼の手足を十字に広げ、強引に立たせる。
「なぁ……何が起こってるんだ……夢か? 夢なんだよな」
驚愕と混乱に染まった支店長の顔に、恐怖が浮かんでいた。
「怒りが──赤い鬼のアンタが鬼主から分かれたときの対処や。知らんのか? 共有しとらんのか? ああ、消えるからか。そら知らんわな」
ゆっくりと身体を起こした奈菜に、赤い鬼が反応しかけるが、手首の痛みに顔をしかめ、また地を転がった。
「赤い、化物が……巫女に手を折られる? 何だよこれは……」
「よー見といてや、オッサン。アンタが認識してくれたら、話が早い」
「は? どういうことだ?」
奈菜の言葉に支店長は困惑するが、奈菜の視線は赤い鬼に向けられたままだ。
赤い鬼の身体を、地面から湧いた赤い小鬼たちが持ち上げていた。鬼は痛みに顔を歪めながら、額の角に黒い稲妻のような光を帯びさせる。
やがて角から放たれた漆黒の光が空へと伸び、半透明の赤い壁に衝突。ぶつかって砕けた黒い光は、雨のように分裂して降り注いだ。
地を突き刺す無数の黒雷が、焼け焦がすように周囲を染める。奈菜はすばやくかわしながら、和美と矢附の方を見た。
和美は矢附の身体を支え、空を見上げていた。黒い光――本来、あり得ないはずの“黒い光”を、彼女は確かに“光”として認識している。
見えないはずの色が見えている。吸い込まれるような黒、影そのものが光となっている錯覚。
その黒い光が、地面に、倒れた人々に、無慈悲に降り注いでいた。
けれど不思議と、死の実感はなかった。他人事のように、淡々と、どこか夢の中にいるかのような感覚。和美はただ、
(私が矢附を守らなきゃ。……いや、大丈夫。奈菜が、きっと助けてくれる)
そう思っていた。
「ぼーっとしとんやないで!」
和美の目の前に、白い光の盾が現れる。奈菜が黒雷を跳ね返したのだ。
「ごめん、ちょっと他力本願だった」
「何のこっちゃ」
「奈菜待ちだったってこと」
「そら、待たせたな」
無数の黒雷が、白い光に当たるたびに溶けるように霧散していく。
「なんか凄いね、奈菜」
「褒めてくれて嬉しいとこやけど、ウチの力だけやないから複雑やな」
「どういうこと?」
「怒りって、爆発したら冷めるやろ。支店長の怒りはもう外に出てしもた。今は混乱しつつも、状況を受け入れかけとる」
奈菜の目が支店長へと向く。
「せやから今、鬼に“痛み”が通じて、攻撃も弾けるようになったんや。支店長がそう“認識した”からや」
「それって……想いが解消されたってこと?」
「そんな都合ようにはいかへん。怒りを祓わな、根本は変わらへん」
空から降る雷が、ふと止んだ。
赤い鬼は小鬼から手を離され、頭を押さえながら、なお奈菜を睨み続けていた。




