第三話 放課後、そして遭遇する
資料運び以外にも細かなお手伝いを終えた頃には、時計の針が十七時三十分を指していた。
「ごめんなさい、結構遅くなっちゃったわね」
「いえいえ、この時間帯は大体学校に残ってたりしますし」
「部活動もしてないのに、それもどうかと思うけどね。真っ直ぐ帰宅してくれるのが教師としてはありがたいのよね。あー、でも高城さんの場合は教師陣が悪いのか……」
気軽に手伝いを頼める和美に教師陣もすっかり甘えるようになってしまった。一年前まではそれを注意する者もいたが、和美が積極的に手伝いを志願してくるので押し負けた形になったようだ。
「先生方の手伝いだけってわけでもないんですよ。結構、困ってる人っていますから」
ちょっとした手伝い、というのは生徒からも和美はお願いされていた。誰かの助けになりたくて、最初に声をかけたのは和美からだった。
そう、と横宮は呟いた。和美の言葉に納得した訳ではなく少しばかり呆れてしまっていた。
注意はした。悪ふざけする生徒もいるはずだ。悪い印象を抱く生徒もいるはずだ。和美の善意が素直に受けとめられるとは思えない。
それでも和美は止めなかった。それを横宮は気の毒に感じていた。
「……長々と話しちゃうとどんどん遅くなっちゃうわね。今日はありがとう」
「いえ、またいつでも気軽に声かけてください」
和美が軽く会釈する。本来なら頭を下げるのは自分のはずだと思いながら、横宮は手を横に振った。それを見て和美は会議室から出ていった。
横宮は小さく溜め息をつきパイプ椅子に座った。スクールカウンセラーの齋藤の和美に対する評価が頭を過っていた。
会議室から廊下へ出て窓の外を見ると、夕方から夜へと移り変わり始めていた。窓から見えるグラウンドが夕日とライトに照らされていて、部活動に励んでいた生徒達が片付けを始めている。
九月末、少しずつ肌寒くなってきた頃。夏休みの終わった二学期からは最終下校時間は十八時と決められていて、それは部活動も例外ではなく三十分前から片付けが始まる部活も少なくない。
練習時間が短くなると不満を言う生徒達もいるが、PTAと教育連盟と世の中の空気には反抗できなかった。暗くなったら危ないから、帰宅しましょう。
「何、また先生の手伝い?」
急に声をかけられ和美は驚きながら振り向いた。振り向いた先には、長い髪を後ろで束ねた長身の女生徒が一人。少し茶色かかった髪が僅かな夕陽に照らされて綺麗だった。
「あ、瀬名さんか。ビックリした」
「あんまり使われてない会議室からこんな時間に誰かが出てくる方がビックリなんだけどね」
瀬名里花。私も括ろうかな、と和美は長くなった自分の黒髪に思った。
「資料運びしてたから、ちょっとね。瀬名さんは部活終わったとこ?」
瀬名はバレーボール部に所属していて、下校時間が早くなったことに不満を漏らしていた一人だ。遅くに残れない分は朝練として早く登校して補う形になる。
「今日はミーティングだけだったからすぐ終わったんだけど、ちょっと人待っててね。今はその暇潰し。校舎の奥に人影が見えたから、好奇心的な?」
L字型の校舎。見渡しのいい校舎。
「別に学校でそんな変なこと起こらないでしょ」
「まぁね、だから暇潰し」
和美の言葉に瀬名は不満そうに答えた。
「瀬名さん、あの、何か手伝えることが──」
「ありがとう、でも──」
和美の声を遮るようにして瀬名は少し大きな声で答え、視線を反らした。視線の先、L字校舎の窓の向こう。校舎二階の自分たちの教室、2のB。そこから女生徒が一人出てくる。
「大丈夫」
そう言って瀬名は女生徒のもとへ歩いていった。
教室から出てきた女生徒は矢附舞彩。二年生の二学期にもなるが和美は余り話したことの無い生徒だった。
教室から矢附に続いてスクールカウンセラーの齋藤が出てくるのが見えた。矢附は振り返り齋藤に頭を下げる。齋藤は手を振り帰りを促してるようだった。
矢附が頭を上げ、再び振り返ると瀬名が近づいてきていた。彼女に対しても、矢附は頭を下げる。瀬名の反応は夕陽が窓に反射してよく見えなかった。
私もそろそろ帰ろう。和美がようやく帰路へと一歩足を踏み出した、その時。
奇妙な笑い声が聞こえた。ケタケタと甲高い笑い声。
背筋がゾッと冷たくなって、和美は辺りを見回した。誰もいない。何もない。
聞こえたのは会議室からではない。その逆方向。帰宅しようと向かう先。
廊下が続いていて突き当たりを左に曲がれば教室へと繋がり、右に曲がれば階段へと繋がる。じっと見つめてみてもそこには何もなく誰もいない。
しかし、笑い声が聞こえる。ケタケタと、甲高い、一つではない、笑い声。
困惑する和美の耳に、今度は足音が聞こえる。上履きで廊下を歩く音。
瀬名と、遅れてついていく矢附だ。
瀬名が和美に気づいて視線をこちらにやったが直ぐ様反らし階段を降りていった。矢附は一瞥することなくただ瀬名を追いかけていった。
階段を降りていく音。そして、ペタペタと音が続く。一つではなく、二つ、三つ。
背筋の冷たさが全身の寒気へと変わり、和美は自分の呼吸が速くなっていることに気づいた。
「なん、なの……」
振り絞って出した疑問の言葉。その音が自身の耳に返ってくると共に和美の目に声の主が映る。
そこには、大きな赤い頭を持つ異形の何かが立っていた。太い手足が不気味に動く。頭には一つ黄色く充血した目玉があって、額からは角が一本生えていた。
赤に連なるようにその異形の何かは青、緑と同じ形をしたものが歩いていた。ペタペタと音を鳴らし、ケタケタと笑いながら。