第十八話 あんパン大奮闘
咆哮。閃光。波打つ空間。そして──音もなく、光界は弾けて消えた。
まるで時間が飛んだかのような一瞬の後、和美は気がつくと、家庭科実習室に立っていた。
「は、え?」
「ハエがどうかしましたか?」
間の抜けた声を出した自分に赤面しながら、和美は隣に立つ西生奈菜に目を向ける。三つ編みに眼鏡、制服姿に戻った彼女が、首をかしげていた。
「いや、ハエじゃなくて……その、服もだけど髪型まで戻っちゃうんだね」
疑問はいくつも頭をよぎったが、まずは目の前の変化に言及することにした。
「んーと、光界の中って、ちょっと現実とは別の認識の世界なんですよ。だから巫女姿に変わって、外に出ると元に戻るって感じですね」
理解は追いつかないものの、説明には納得がいった。和美は鈍く頷きながら、教室を見渡す。瀬名と矢附が椅子に座ったまま机に伏していた。
「二人とも……大丈夫なの?」
「命に別状はありません──なんかドラマっぽいセリフですね、初めて言いました。……あ、ごめんなさい。二人とも鬼の影響が消えたことで気を失ってるだけです。疲れて眠ってる、って感じですね」
「そっか。じゃあ、目が覚めたら……驚くかもね」
あまりに色々なことが起きた。いまだ現実感が薄い。もし帰って眠ってしまったら、「全部夢でした」と言われても納得してしまいそうだった。
「でも、その点は大丈夫です。鬼の影響で起きたこと──増幅した感情とか、そういうのは記憶から消えるみたいです」
「……消える?」
そういえば光界に入る前、西生は「忘れる」って言っていた。説明を面倒がっていた理由が、なんとなくわかった。
「うーん、うまく説明できないんですけど……長い歴史の中で“人を守るためにそうなった”って理解してもらえればいいと思います」
「ってことは、瀬名さんや矢附さんだけじゃなく、あの場にいた他の生徒たちも?」
「ですね。影響が少ない人たちは眠ったりはしないけど、記憶の欠落が起きて、その部分はうまく辻褄合わせされるんです。今回のことも、おそらく“体調不良で倒れた瀬名さんが保健室に運ばれた”くらいに処理されるはずです」
「じゃあ……私や西生さんのことも忘れてる?」
「いえ、覚えてる人もいると思います。でも、記憶の一部が曖昧になるので、それぞれ納得のいく形で辻褄が合わされるんです。高城さんが瀬名さんを支えてたのも、私たちが廊下を走ってたのも、保健室に運ぶ途中だった……みたいに」
全部を見ていたわけでもないのに、整合性を取るよう記憶が補完される。あるいは、たとえ全部見ていたとしても、そう補正されるのだろうか。人を守る仕組みだと言われても、やはり不思議に思える。だが、和美はとりあえず頷いておくことにした。
「……つまり、問題は解決したってこと?」
「“鬼の影響は解消した”というだけですね。その結果どうなるかは、これからの二人次第。心の問題なので」
「なるほど。わかった」
一息ついて、和美は瀬名と矢附を見て頷いた。
「それで、この二人……保健室に運ぶ?」
「大変そうなのでやめましょう。私たちが見つかると、また辻褄合わせが面倒になるので、こっそり窓から抜け出しましょう」
「え? それはそれで“なんで家庭科室に!?”ってならない?」
「なります。でもそれも含めて、みんなの“答えのない疑問”になります。記憶の欠落があるから、“まぁ、何かあったのかも”って形で収まるんです」
そう言いながら西生奈菜は軽やかに窓際へ歩き、慣れた手つきで窓を開けて足をかけた。
「ほら、高城さんも早く」
和美も頷いて、あとに続く。
「高城さんが居てくれて助かりました。実は今回、私、一人でお祓いするの初めてで不安だったんですよね」
窓枠を越えて奈菜が地面に降り立つ。上履きで土を踏み、ちょっと眉をひそめた。
「……もしかして、“難しい”って、そういう意味だったの?」
「はい。これまでは姉と二人でやってたんですけど、大体お姉ちゃんが主導だったので……今回は一人でできるか不安で」
和美は窓枠にまたがったまま、思わず唖然とする。
「あー、不安が消えたら急にお腹すいてきちゃったなー」
奈菜がお腹を擦りながら空を見上げた。つられて和美も見上げる。時計を見るのを忘れていたが、空はすっかり夕焼けに染まっていた。
「ねぇ、西生さん。あんパン、鞄の中にあるんだけど……食べる?」
実習机に提げたままだった鞄を思い出す。そういえば、何となく予感がして今日はひとつ多めにあんパンを買っていた。
「え、いいんですか? 昨日に続いてすみません、いただきます」
流れるような口調で奈菜が笑う。
「あ、あと……“奈菜”って呼んでください、私のこと」
「じゃあ、私も“和美”って呼んでね」
そう言って和美も地面に降りた。疲れていたせいかうまく着地できず、ふらついたところを──奈菜が手を差し出してくれた。
その手を掴んで、和美は言う。
「ありがとう、奈菜」
「こちらこそ……えっと、和美」
少し照れくささが混じったその会話のあと、二人は握手し、微笑み合った。──そして、奈菜のお腹がぐう、と鳴り、二人は顔を見合わせて笑いあった。