第十七話 助かるという覚悟
和美は矢附の方へ身体を向けた。矢附は仰向けに倒れたまま動かない。
「おとなしくしとけって、言うとるやろ!」
地面を叩いたのは、同じく仰向けに倒れていた青い鬼だった。先ほど西生奈菜が見せた動作を真似るように、その手のひらから黒い光の筋が地を這って伸びていく。
「モノマネなんて、しょうもないヤツやで!」
西生奈菜が跳ねるように近づき、青い鬼の手のひらを踏みつけた。黒い光の筋はぶつりと途切れ、霧のように消え散った。
「邪魔な巫女やで!」
鬼が睨みを利かせたその瞬間、腰を浮かし、関節がねじれたような不気味な動きで身体を起こす。そして両脚で西生奈菜の頭を挟むと、そのまま勢いよく宙へと放り投げた。
身体の自由も効かず、西生奈菜は地面へと叩きつけられる。
「先に相手するのはやっぱりアンタや。巫女ってのは、ほんま邪魔くさいわ」
鬼がゆっくりと立ち上がる。西生奈菜も手を突き、息を荒げながら立ち上がった。
「邪魔くさいのはお互いやろ。……いや、やっぱりお前の方が邪魔やな、鬼やしな」
西生奈菜が指を突き出す。青い鬼は口の端を吊り上げ、笑っているようだった。
その横で、和美はそっと矢附に近づいていた。
「矢附さん、聞こえる?」
「……高城、さん……?」
矢附は意識を取り戻していた。ただ、仰向けのまま呆然としている。青い鬼が自分の足元から現れたその瞬間から、何が起きているのか、なぜか理解できてしまっていた。
鬼主と呼ばれた自分が、あの鬼を生み出したこと。あの鬼が、人間を殺すために存在していること。それは確かに、自分の想いの歪んだ形。自分が望んだわけではない。でも──
「望んでなんて、ない……けど、どうしようもないんだよ……」
矢附はぽつりと呟いた。
私はただ、助けてほしかっただけだ。助けてくれなかったことを恨んでいるだけ。誰もが私を見捨てた。知らなかったんじゃない。見て見ぬふりをしただけ。そうして、皆が私をいじめた。全部、周りが悪い──そう思いたかった。
だから、鬼が誰かを殺しても、それは私の望みとは違う。私はただ、助けてほしかっただけなのに。傷つけたいとも、殺したいとも、思ってない。
でも、止められない。鬼なんて、そんな化け物、私にはもうどうすることもできない。もう、手を離れてしまった。だから──あとは知らない。
「ねえ、矢附さん──」
真っ白な空間を見上げた矢附の視界に、和美が映る。手を差し出していた。
「私ね、あなたを助ける」
「え……?」
和美は屈んで、そっと矢附の左手を握った。
「まずは仕返しをしよう。いじめてきた人たちを探してさ。髪、ちょっと切ってやるとか? 鞄……どうしよう、持たせる理由がないなら他の方法でもいいか。あとは──何かされた?」
「高城さん……何を言ってるの……?」
矢附には、和美の言葉の意味がわからなかった。鬼や想いについては、まるで元から知っていたかのように理解できたのに、目の前の少女の言葉は、まったく現実味がなかった。
和美は優しく微笑んでいた。けれどその笑顔に、矢附は一瞬、背筋が凍るような恐怖を感じた。
「矢附さん。私はあなたを助けるよ。いじめられていた過去を、笑い飛ばせる日が来るように。そのためのケジメを、一緒につけよう」
「高城さん……ねえ、何を……」
「人に関わるのって、面倒くさいし、怖いんだよ。特にいじめのことなんて、過去の話って片付けられやすい。でもね──」
和美が矢附の手を強く握る。その視線が真っ直ぐにぶつかってきて、矢附の身体がこわばる。
「だから、誰も助けようとしないんだと思う。助けるって、ほんとはすごく面倒で、怖いことだから」
「やめて、高城さん──」
「でも、私は助けたいと思った。だから助けるよ、矢附さん。あなたが、助けを願ったから」
その手が矢附の身体を引き起こす。立ち上がらせるように、力強く。
「だからね、矢附さん。覚悟してね。助けられるっていうのは、あなたがそれを望んだから。助けられる痛みも、迷いも、全部、あなたのせい。あなたが願ったから、私は動くんだよ」
まっすぐに向けられた瞳に、矢附は息を呑んだ。その「助ける」という言葉の裏に、まるで自分が殺されるような錯覚を覚える。自分自身──他人のせいにしていた心が、いじめられたと自覚して抱いた感情が、抉られていく。
「やめろ、お前っ! 私を助けようとするなぁっ!」
青い鬼が頭を抱え、のたうちながら叫ぶ。その声に、矢附自身の声が重なって聞こえた。矢附は、和美を見つめたまま、言葉を失っていた。
「かぁーっ、怖い女やで、高城。まさかそんなことするとはな。お手柄その2や。でも──」
鬼の声が咆哮に変わった。その身体を黒い光が覆い、空へとまっすぐ柱のように迸る。
「抗うわな。……死にたないもんな」
西生奈菜が両手を擦り合わせる。木の葉が宙に舞い、ゆらゆらと光を纏っていく。
「全部、私のせい……?」
矢附が、哀願するように和美を見つめる。
「ううん。助けたいって思ったのは私だから。だから、私のせいでもあるのよ。一緒に、頑張ろう。矢附さん」
手の中の温もりが、確かに伝わってくる。矢附はそっとその手を見つめた。今まで誰にも届かなかった、誰かの手。ずっと願っていた、救いの手。
「やめろぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉっ!!!」
青い鬼が咆哮し、黒い柱が白い空間を飲み込んでいくように広がる。
「やめるんはお前や──」
舞い落ちる木の葉が、地を打った。白い空間が唸りを上げて震え、光を放つ。波打つ空間が、生き物のように形を変え、黒い柱を喰らった。
「──ほな。さいなら」
咆哮は、光の中へと溶けて消えた。