第十六話 助けようとしたその手
西生奈菜と青い鬼の戦いは続いていた。鬼の猛攻をかわしながら、奈菜は間合いを詰めては打撃を加える。しかし鬼はまるで意に介さず、次々と新たな攻撃を繰り出す。
分が悪い──和美は、その光景を見て素人ながらにも悟った。西生奈菜が「厄介」と口にしていたのは、こういうことだったのだろう。
手助けしようにも、黒い炎が壁のように立ちはだかり、それを超える術もない。そもそも、今の自分に何ができるというのか。
「高城さん、ねぇ、高城さんっ!? 本当に大丈夫なの、これ!? 私たち、もう食べられちゃうんじゃないの!?」
瀬名が恐怖と混乱を和美にぶつける。だが、和美には返す言葉が見つからなかった。何もできないままでいてはダメだと、ただそれだけを思い、首を横に振る。
「何もしない、って選択肢は……もう、選ばないことにしたの」
「な、なに言って──」
和美は意を決し、瀬名の元へ歩み寄る。その表情を不安げに見つめる瀬名の右腕を、和美が掴んだ。
「痛っ! な、何するのよ、高城さんっ!?」
「痛いって、ちゃんと感じるんだね。右腕が“掴まれてる”って、理解できてる」
その言葉に瀬名は目を見開いた。確かに右腕は、小鬼に喰われたはずだった。あるはずのない腕が、今、確かな感触を伴って和美に掴まれている。
「ど、どういう……こと?」
震える声で問いかける瀬名。目に涙を浮かべ、理解の及ばない状況にただ怯えていた。
「瀬名さん、あなたの腕は喰べられてなんかいない。ただ、それだけのことよ」
「う、嘘でしょ!? だって、ほら、見てよ! 腕が──」
瀬名は右肩を動かして、喰い千切られたはずの部位を見せようとする。そこには、半透明の青い右腕が揺れていた。自身の身体とぴたりと重ならず、ずれている。蜃気楼のようにぶれて、確かに「ある」ように見えた。
「何……なにこれ、どうなってるの!?」
「その右腕、わかる? 瀬名さん」
「わかる、けど……ぶれてるのよ! あるのかないのか、もう……もう訳がわからない!」
幻のような腕を、和美がしっかりと掴んでいる。その感触だけが確かで、それ以外は曖昧だった。右腕が「繋がっている」という感覚すら、かすんでいる。
「瀬名さん、落ち着いて……」
和美はそっと息を吐く。鬼との戦いは一向に収まらず、光の結界は縮み始め、小鬼の数も増えてきていた。状況は悪化の一途をたどっている。それでも、和美の中には確信があった。西生奈菜の言葉が、今も頭の中に蘇る。
――瀬名さんと矢附さんを、引き剥がして。
「瀬名さん。あなたには矢附さんを助けることはできなかった。だからって、あなたが悪いわけじゃない。この手を差し伸べる必要なんて、どこにもないのよ」
「あっ──」
その言葉に、瀬名の右腕のぶれが静かに治まった。
「『助けてあげて』って頼まれて、それで手を差し出した。でも、助けられなかった……そう思ってるんでしょ?」
「そうよ……そう。頼まれたの。いじめのことを知って、何もしないわけにはいかなかった。周りの目も、矢附の目も、自分の目も怖かった。可哀想な子を前に、見て見ぬふりをする人間になりたくなかったの。ただ……何かしたっていう、証明だけでも欲しかったの。そうじゃなきゃ、自分が悪いって思っちゃうから……」
右肩から、右腕の感触がじわりと戻ってくる。不思議な浮遊感とともに、確かにそこに「繋がる」。
「でもね、瀬名さん。あなたには、無理だったの」
「無理……?」
「だってあなた、“助けよう”としたわけじゃない。“助けたい”って心から思ったわけでもない。ただ、手を出して、自分を守ろうとしただけ。だからその手は、届かない。だからその手じゃ、何も掴めないのよ」
瀬名の目から、涙がこぼれ落ちる。冷たくも優しい和美の言葉に、静かに頷いた。
「もう一度言うね。瀬名さん、あなたは悪くない。この手を差し伸べる必要は、もうないの。矢附さんのことは……私が助けるから」
瀬名の右腕と重なるように、青白い半透明の腕が再構成される。それはやがてぶれを止め、輪郭を定めて瀬名自身と重なった。和美に掴まれていた右腕は、矢附を見つめたあと、静かに下ろされた。
「ナ、ナンヤ──」
白い空間へ侵入しようとしていた青い小鬼が、言葉を発し終えるよりも早く霧散した。その様子を見ていた他の小鬼たちも声をあげかけ、次々と消えていく。
「高城!? ……なるほどな、お手柄や」
「チッ、じっとしとけって言うたのに。ホンマに言葉通じへん連中やで……!」
西生奈菜と青い鬼の視線が、和美へと向く。鬼の角が黒く光りかけたその瞬間、西生奈菜が白い光をまとい、それを弾いた。
「させるかいっ!」
そのまま一歩踏み込み、奈菜は両の掌を突き出す。双掌打。渦巻く光が鬼の腹部で炸裂し、鬼の身体がくの字に折れた。落ちた顎を狙い、和美は掌底打を突き上げる。鬼の身体が宙に浮き、のけぞって倒れ込んだ。
「効き始めたなぁ、このボケがっ!!」
怒号を浴びせる西生奈菜の巫女装束は、黒い矢に貫かれてボロボロだった。露出した肌には無数の切り傷が走り、血が滲んでいる。それでも、彼女の呼吸には、ほんのわずかな安堵が混ざっていた。