第十五話 助けを乞い愉快に笑う
西生奈菜の首筋を、じわりと血が這う。首を掴まれた際に、青い鬼の鋭利な爪が皮膚を裂いたのだ。
「西生さん、大丈夫!?」
和美の声が震える。だが西生奈菜は、鬼から一瞬たりとも目を離さず、静かに答えた。
「騒がんでええ。鬼は“想い”が形をとったモノや。そいつから受ける傷も、認識の話やねん。実際には皮膚、切れてへん」
「認識って……そんな。じゃあ瀬名さんも同じ? でも、それってつまり……!」
「大丈夫やとは言うてへん。ウチが恐怖に呑まれたら、終わりや」
言い終えるや否や、西生奈菜は再び駆け出した。鬼との距離を詰める。
間合いの上では、手足の長い青い鬼が圧倒的に有利だ。西生奈菜の放つ光の攻撃は飛距離こそあるものの威力は乏しく、小鬼を払う程度の術に過ぎない。
──近づくしかない。
一歩、二歩と踏み込みながら、鬼の動きに集中する。僅かな挙動も見逃せない。
鬼の左足がわずかに動く。距離はまだある。だが、それは踏み込みなしの回し蹴り──それでも空を切る一撃は速すぎた。
致命傷になると、直感が告げた。
西生奈菜はとっさに左手で右腕をなぞる。触れた部分に淡い光が走った。
回し蹴りに合わせて、彼女は踏み込む。受け止めるのではない。自ら体当たりを仕掛けて、強引に間合いに飛び込んだ。
鬼の蹴りとぶつかり、衝撃に身体が軋む。だが踏みとどまると、さらに一歩。懐に入った。
左掌に光を灯し、掌底を打ち込む。鬼が身を捻ってかわすのを見て、西生奈菜は続けて右の横蹴りを放った。重く、壁を蹴ったような手応え。
だが――。
鬼の手が西生奈菜の右足を捕らえる。瞬間、力任せに振り上げられた。
投げ捨てられ、宙を舞う。西生奈菜の身体を、追いかけるように黒い光が放たれた。
手をかざして防ごうとしたが、間に合わない。黒い光が彼女の体を貫いた。
全身に奔る電流のような衝撃。呻き声を上げる暇もなく、痺れと鋭い痛みに襲われ、西生奈菜の身体は無力に地面へと叩きつけられた。
和美が思わず駆け寄ろうとする。だが、彼女の足元に黒い雷が落ちた。まるで制止するかのように。
「巫女さんが“騒がんでええ”言うとったやろ? おとなしくしとき。そっち殺したら、すぐ相手したる。……すぐ、殺したるからな」
青い鬼が指を伸ばし、和美を指差す。その爪が空を横に払うと、落雷の跡から黒い炎が燃え上がる。
黒い炎は横へと広がっていき、西生奈菜と鬼との間に境界を描く。
青い鬼がゆっくりと西生奈菜に近づく。西生奈菜は仰向けのまま、微動だにしない。
「私をいじめたアイツらみたいに、じっくりいたぶってもええんやけどなぁ。順番待ちがあるみたいやし、先に殺したるわ、巫女さん」
「……鞄持たされて、髪切られるのは勘弁やからな。じっくりネチネチやられるより、まだマシかもしれんわ」
西生奈菜が両手で地面を打つ。光を帯びた掌が叩かれた白い床が震えた。その震動に、青い鬼がわずかに足を取られる。
その隙に、西生奈菜の両手から伸びた光の筋が、鬼の足首に絡みついた。
「でもな──殺されるのは堪忍や。死んでも嫌や」
身体を捻りながら、西生奈菜が立ち上がる。鬼の足に絡んだ光がその動きを鈍らせ、鬼の巨体が前へと倒れかける。
西生奈菜は右手を振り上げる。その動きに呼応して、絡んだ光が散り、代わりに地面に小さな光の円が浮かび上がった。
前のめりになった鬼の顎を、その光の円から突き出た柱が撃ち上げる。
激突の瞬間、鬼の角が黒く輝いた。
「落雷……?」
そう思い目を上げた瞬間、光は“上”ではなく“横”から襲ってきた。白い空間を割って伸びる、太く青い腕──小鬼の腕だ。
「光が、移った……!?」
和美は見ていた。鬼の角から放たれた黒い光が、瞬時に小鬼の腕へと移っていく。
白い空間に、再び小鬼の腕が生え始めていた。だが、今度は青一色。次々と、無数に。
次の瞬間、黒い光が“矢”のような形に変わり、西生奈菜の左腕を貫いた。
血も音もなく、ただ光が突き抜け、空気に溶けていく。
西生奈菜は歯を食いしばり、痛みに耐える。続けて放たれた二発目の矢を、身を翻してかわす。
黒い矢は、間断なく撃ち出される。西生奈菜はそのたびに最小限の動きで回避し続ける。
空間にどんどんと増えていく青い腕。そのすべてが、黒い矢を放ち始めていた。
(なんで、また小鬼の腕が……?)
和美が辺りを見回す。気づく――半球状の光が、わずかに縮んでいる。
西生奈菜が疲弊しているのだ。
「お疲れか、巫女さん? でもな、まだ始まったばっかりやで?」
「……せやな。疲れたわ。だからこそ――とっとと、消えてくれへん?」
西生奈菜は矢を避けつつ、少しずつ鬼との距離を詰める。
それに応じるように、青い鬼も踏み込んだ。
「消える? 嫌や! 助けてくれ! 助けてくれぇぇ! 助けられへんのやったら――お前が死ねやぁっ!!」
鬼が口を歪め、愉悦の笑みを浮かべる。西生奈菜は、その顔に吐息をつきたくなるほどの嫌悪を感じた。