第十二話 いじめ
「私の改心、って何ですか?」
矢附は俯いたまま、かすれる声で呟いた。
「悩み事、怨み言、鬱憤、憤怒……そういう感情の解消やな」
西生奈菜の声は冷静だった。
「そういうのは、スクールカウンセラーの齋藤先生に相談してます」
矢附の言葉に、西生奈菜は目を細める。
「……せやけど、解消はされてへん。あるいは──」
言葉を切り、矢附をじっと見つめる。
その目には、手足を縛られた相手にすら警戒する色があった。
「相談したことで、むしろ感情が強くなったんやないか?」
「いじめられたことへの怒りが再燃したってこと?」
瀬名が食い気味に問いただす。
「違う」
矢附は即座に首を横に振った。
「そんなこと……思ってない」
その言葉に、西生奈菜が静かに続ける。
「そう。そんなんちゃうねん」
沈黙。
「どういうこと?」
和美は、西生奈菜がカウンセリング内容まで知っているのかと訝しんだ。
西生奈菜は腕を組み、淡々と語る。
「青の小鬼が瀬名の腕を食べたやろ? 青が活発ってことは、敵意や殺意よりも、妬みとか哀願の想いが強いってことや」
「妬みや哀願……?」
和美の脳裏に、体育館の黒い水溜まりから生え出した無数の青い腕がよぎる。
「つまり、『いじめへの復讐』やなくて、『誰も助けてくれなかった』って想いや」
「そんな……! だって、あの時は──」
瀬名が息を呑む。
「……誰も気づかないくらい、些細なことだったから?」
矢附が顔を上げた。
今にも泣き出しそうな表情で、瀬名をまっすぐ見つめる。
「最初はね……私、自分が弄られやすいんだと思ってたの」
矢附はゆっくりと話し始める。
「それをどうにかできないかって、入学式の日に齋藤先生に相談したの。先生が『気軽にどうぞ』って言ってたから……本当に時間潰しみたいな感じで」
人懐っこい笑顔の、大柄なスクールカウンセラー。
和美も、齋藤のことは知っている。
「先生は言ったの。『弄られやすいって例えばどんな?』って」
矢附の指が、ぎゅっと制服の裾を握りしめる。
「それで、中学の時の話をしたの。髪が伸びたら『似合わない』って言われて、勝手に切られたり……皆の通学カバンを持たされたりした話を」
「……それ、弄られやすいってレベル?」
西生奈菜が首をかしげる。
「でも、ちょっとだった。前髪を少し切られただけだし、カバンを持たされるのも帰り道の数分だけ。だから、私はずっと『ちょっと嫌だな』って思ってただけだったの」
──でも。
「先生は言ったの。『違う、それはいじめだよ』って」
矢附の目から、涙が一筋流れた。
「待ってよ。……そうでしょ?」
瀬名の声が震える。
「矢附本人ですら、いじめだって思ってなかったんだから……
周りが助けようがなかったじゃない」
そう言いながらも、右肩を押さえる手に力がこもる。
もぎ取られたはずの腕は、確かにそこにあるのに。
なのに、消えない。
消えない、痛みが。
「そうなんだけど……」
矢附の唇が震える。
「そう思うのが、多分正しいんだけど……だけど──先生は、いじめだって言ってくれたの。だったら──他の誰かが助けてくれても、おかしくなかった!」
「そんな、そんな自分勝手なことで……!」
瀬名の怒声が響く。
「私、右腕を食べられたの!? 殺されそうになってるの!? ふざけんじゃないわよ!!!」
矢附を睨みつける。
矢附も、瀬名を睨み返す。
「矢附、アンタとは中学で関係なんてなかった。ただの近所の知り合いってだけじゃない。いじめなんて知るわけないし、助けなかった責任を負う謂れもない!!」
「……だから、哀願や言うたやろ」
西生奈菜の声が、二人の間に割って入る。
「相手の同情心に訴え、願うこと。要は、矢附の『誰かに助けてほしかった』って想いの強さや。けどな、瀬名──アンタが食われたんは、それだけのせいやないで?」
瀬名と矢附が、西生奈菜へ視線を向けた。
「瀬名も、心のどこかで思ってたんやろ。──『私は悪くない』『誰かに、そう言ってほしい』ってな」
「瀬名さんも、哀願してるってこと?」
和美の問いに、西生奈菜は頷いた。
「せやな。瀬名の想いが、青の小鬼を引き寄せた」
瀬名の呼吸が荒くなる。
もぎ取られたはずの右腕に、じわりと鈍い痛みが広がっていく。
和美が支えにと手を差し伸べるも、瀬名は断った。
「齋藤先生から相談を受けたって、担任の横宮先生に頼まれたの。矢附がまたいじめにあわないように気にしてやってくれって。何をすればいいのか訊いたら、極力一緒にいてやってくれって。監視役よ」
瀬名は嫌そうにそう呟いた。
「いじめの話を聞いて思ったのは、私は助けられなかったってこと。自責の念じゃなくて、そうね、自己肯定的な形ね。仕方なかった知らないんだから助けられなかった、ってね」
矢附を睨みながら瀬名は言葉を続ける。
「そんなの、想うのって普通のことじゃない? なんでこんなことに?」
「矢附の監視役に任命されて毎日矢附の側におることで積み重なった、とかそんなとこやろね。感情ってのはそういうあやふやなもんで、鬼もそんなあやふやなもんやからな」
だから怖いんよ、と西生奈菜は続けた。
「それで……結局、どうしろってのよ」
瀬名が絞り出すように言った。
「矢附が納得するしかないってこと? 誰も助けられなかったって、受け入れるしかないって?」
「……せやな」
西生奈菜は、珍しく言葉を濁した。
「そんなので、解決するの?」
和美の問いに、西生奈菜は肩をすくめる。
「簡単にできると思うか?」
その言葉は、矢附へと向けられた。
矢附は、震える瞳で瀬名を見つめていた。