第十話 腕生える
「ハァー、ウマイウマイ」
クチャクチャ。
クチャクチャクチャ……。
青の小鬼が、口もないのに咀嚼する音を立てる。ペタペタと跳ねる赤と緑の小鬼が、それを囲むように弾んでいた。
瀬名は、右肩を押さえたまま硬直していた。何もない空間を見開いた瞳で凝視している。
だが、周囲の生徒も教師も、誰も気に留めていなかった。
誰も。
(見えていない? 聞こえていない?)
和美は息を呑んだ。昨日、西生奈菜に「見えることが珍しい」と言われたばかりだった。けれど、今この状況で──「見えない」ことのほうが、異常に思えた。
「ねぇ、何か……何かいるよ!?」
瀬名が悲鳴を上げた。
「え? 瀬名さん、何言ってんの!?」
周りの生徒たちが困惑しながら後ろを振り返る。だが、彼らの目には何も映らない。
「ツギハアシクウカ」
低く、濁った声が響いた。
「やめて、来ないで! 食べないで!!」
瀬名が這いずる。だが、その姿は生徒たちの目には「何もない場所で錯乱している」にしか見えなかった。
「アーア、ワラットンデカワイソウヤナ」
「ミエヘンノハカワイソウヤナ」
「ジブンラモクワレルノニカワイソウヤナ」
三体の小鬼が、ケタケタと狂ったように笑う。
緑の小鬼が太い腕を広げた。生徒たちの間をすり抜けるように、その腕が伸びる。何もない空間に向かって、禍々しい影が迫る。
「い、嫌、来ないで、来ないで!!」
瀬名は悲鳴を上げながら、必死に後ずさる。それを抑えようとした生徒たちが、次第に困惑と嫌悪を滲ませた表情になる。
「瀬名さん!? 何なの、もう!」
生徒たちの手が、瀬名を抑えるのをやめた。憐れむような視線が、彼女に向けられる。
「食べないで、嫌、食べないで、嫌、食べないで、嫌……」
小鬼がじりじりと近づく。体育館の空気が、じっとりと濁っていく。
──その空気を、一喝が切り裂いた。
「瀬名さん、立って!」
和美の叫び。
一斉に、生徒たちの視線が和美に向く。そして、ケタケタと笑っていた小鬼たちも──ゆっくりと、和美に視線を向けた。
「高城さん……高城さん!? ねぇ、アレ、何なの!?」
瀬名の目が、大きく見開かれる。和美と話していた直後に、腕を喰われた。だから──和美が何か関係しているのではないか、と。
だが、そんな疑問を口にする余裕はなかった。
「とにかく立って! 逃げるよ!」
和美は瀬名の肩を引き上げる。彼女は言いたげだったが、和美の支えに素直に従い、よろめきながら立ち上がった。
「高城さん……何、どういうこと、コレ……」
生徒たちの視線を浴びながら、和美は体育館の入り口へ踏み出す。小鬼たちが、じっと彼女たちを見ていた。
「何で……アイツら、動かないの?」
「……わからない」
和美は、無意識に喉を鳴らした。
昨日と違う。
昨日は、ただ「逃げるしかなかった」。
でも今は──奴らがこちらを伺っている。
まるで、次の一手を測るように。
体育館の入り口に、野次馬が集まり始めていた。瀬名の叫び声が、外に響いていたのだろう、その中に──和美は見つけた。
西生奈菜の姿を。
──来てくれていた。
目が合う。西生奈菜は、無言で頷いた。
そして、彼女の手元から伸びる光の線が見えた。それは、じわりと体育館の床を這い、小鬼たちの足を絡め取っていた。
(助かった──)
そう思いかけた瞬間。
西生奈菜は、首を横に振った。
「……何、どうしたの、高城さん?」
瀬名の声が震える。
「助かったと思ったけど……違うみたい」
「助かった……違う?」
「ごめんね、瀬名さん。もう一度言うけど、私もよくわかってない」
──ぴちゃっ。
足元で、小さな音がした。
和美は、反射的に下を見た。
床に広がる黒い水溜まり。
それが──僅かに揺れていた。
広がっている。
気づいたときよりも、確実に。
(……いつの間に、こんなに……?)
さっきまで、ただ「床が黒ずんでいる」程度だった。
誰も気にしていなかったし、何の変化もなかった。
瀬名が暴れても、小鬼が跳ねても、水は波立たなかった。
それが今。
──ぴちゃっ。
はっきりと音を立てた。
「走って!」
西生奈菜の叫びが響く。
和美は、瀬名を支えるのをやめた。引っ張る形に変える。
「ちょっ、ちょっと!? 何!?」
瀬名は転ばないように必死でついてくる。
その背後で。
──黒い水溜まりが、蠢いた。
そこから、腕が生えてくる。
一本、二本、三本。赤、青、緑。
小鬼と同じ、太い腕が、十数本。
水溜まりから、生えてきた。