#9 火の消えたロウソク
今日は授業を欠席した。この調子で受講しても、ろくに内容も入ってこないだろうと思ったからだ。
「…………」
一人しかいない寮の自室。それなのに、騒がしい気がする。呑気に鳥が鳴く。風が窓を揺らす。私という存在がいる。
溜め息すら、音に消える。あくまでみんな、傍観者なのだ。ただ見ているだけ。何も教えてくれない。
その傍観の存在にも、そして自分自身にも、憤怒を抱く。
「はあ……」
しかし、その感情の行き場は彼女の内でしかない。行き場のない怒りは、仕方なくエルンの深奥へと戻っていく。それもまた、悔しい。
何もかも、自分が弱いから――。
ユア・イストワール。あれには勝てない。
単純に、魔力の出力や魔法の威力が違う。仮に同じ魔法を撃ちあったとしても、彼が勝つだろう。それは一撃の威力が強いから。
工夫を凝らし、技術で勝とうにも、それは敵わないだろう。彼の魔法の応用力は目を見張るものだ。定石に囚われない、奇想天外な戦法。どのような手を使ってくるか、全く分からないために、対策がとれないのだ。
転移魔法を多用していたユアだが、他にも強力な魔法を隠し持っているはず。それを予想して対策をとるとなると、莫大な時間と労力がかかる。
「そんなの、無理だわ……」
自分の弱いところに、嘲笑われているようだった。
こういう時、自身を取り巻く時間は、現実の時間軸と乖離する。昼休み特有の騒がしさのおかげで、今が昼頃だと気付かされる。
それに対しても、エルンは無感情だった。朝も昼も夜も、それは傍観の席に座っているから。
コンコンと、扉のノックする音がした。音は鮮明。この部屋に対してのものだ。
「はい、どうぞ」
機械的に返事をする。
「……エルン様、昼食をお持ちしました」
遠慮がちに入って来たのは、エルンのルームメイト。ソニア・ハウニグ。中流階級の家の出で、エルンに陶酔気味の少女。彼女の忠誠心には、エルンも驚かされる場面もしばしば。
「ありがとう、受け取るわ」
全く普通の料理たちが乗った盆を受け取る。しかし、食事を目の前にしても、食欲は湧かなかった。
「お身体の具合は大丈夫でしょうか?」
「ええ、心配することはないわ。……明日は、授業を受けるつもりだから」
そう言うと、ソニアの安堵の情が、表情から伝わって来た。
「ゆっくりと、お休みください」
それだけ言って、彼女は退出した。
盆を机に置いて、座る。やはり食事に手をつけるでもなく、再び思考の迷路に迷い込む。
ソニアはいつも、あのような感じだ。自室だというのにエルンの前では常に敬語。隙を見せない態度。一度、それらを指摘したときがあった。自室くらい、気を抜いても良いのではないか、と。それでも、彼女は一貫していた。自分が勝手にやっていることだし、エルンに敬意を示したい、と。
そのときは非常に嬉しかった。自分をこんなにも慕ってくれる者など、そういない。だが、今は違った。
――彼女の生活を奪っているようで、申し訳なかった。
先程ソニアと話していたときも、自分自身に嫌悪感を覚えた。承認欲求の塊となった、『魔女』の存在に。
ジオグラスを名乗れば、誰もがエルンに平服し、称えた。それに甘えてしまったとき、『魔女』の火種が生まれた。
肥大化していく『魔女』は、やがてエルン・ジオグラスを飲み込んでいった。『魔女』という役割に、立場に、自分に、支配されていった。
「私は、エルン・ジオグラスなのにっ……!」
『魔女』を振り払うために、力をつけた。それなのに、その力はすべて『魔女』の手柄となる。エルンの元には、過程しか残らない。いつも褒められるのは『魔女』の方で、期待されているのも『魔女』だ。
所詮エルンは、『ジオグラスの魔女』の器でしかないのだ。
「――ああ、なんと美しい感情か……」
咄嗟に顔を上げたが、まるで金縛りにあったかのように、それ以上は身体が動かなかった。
「……ぁ、ぐ……」
声すら出せない。そのくせ感覚は残っているようで、背中が嫌な汗のせいで気持ちが悪い。
「ああ、そう焦るな。ゆっくりと、じっくりと、この時間を楽しもうじゃないか」
その声は男。それほど若くない。
口調こそ穏やかだが、背後の存在から感じるものは、恐ろしさと恐怖。
背筋を辿って、悪寒が這い上がって来る。
怖い。ただ、その一言だった。
日が傾いてきていることに、なぜか今、気が付いた。置きっぱなしの昼食はとうに冷めている。この部屋に入る陽光が減り、景色が黒ずんで見える。
――なんで今、気付いたんだろう。
「ああ、貴女はとても、儚い存在だったよ。とても惜しい」
背後の男が一歩近づく。背中に彼の指先が触れた気がした。
「ぁ……が、っ……!」
とても気持ち悪い。エルンの全身から、何かが浸み込んでくる感じがする。血肉を容易に透過し、一心にエルンの内側に入り込んでくる。
相も変わらず不快感が全身を包み込む。何も食べていないため嘔吐の心配がないのが不幸中の幸いだろう。
だが、そんなことで安堵していられなかった。
「《裂咲血華》」
男が詠唱をした。一瞬の出来事で、彼女自身も理解できなかった。
視界の下方向から赤色が飛び出してきて。
それで、ぜんぶ、あかいろになって。
あれ、そのあとは、どうなったんだっけ――?