縄跳び
「ふわぁ」
午前7時、天気は快晴。
今日の気温は春仕様。
春眠暁を覚えず、といきたいところだけど、咲楽は毎朝キッチリ7時に起きるから、一緒のベッドで寝ている俺も自然と目が覚めてしまう。
二人で起きて、顔を洗って、歯を磨いて、窓から差し込む陽気にウトウトしながら紅茶を淹れて、朝食をいただく。
初めはパンとヨーグルトのみの簡素な食事だったけど、今は交代制で各々好きなものを作っている。今日の当番は咲楽で、白味噌を使った具沢山の味噌汁が身体に沁み渡る。
それをおかずに炊き立ての白米を掻き込む。美味い。
朝食を終え、食器を片付けると、俺は日課にしている朝の散歩に出かけた。
なんとなくだけど、隠居生活ってこんな感じなのかなと思う。
森の中を歩いていると耳に入ってくる小鳥の囀りが心地良い。
おっと、リスさんだ。今日もいい天気だね。おはよう。
俺はグッと伸びをして天を仰いだ。
こう何の事件もなければ退屈してしまうかとも思ったけど、杞憂だったかな。毎日楽しいし、平和が嫌になることもない。永遠にこうしていられる自信がある。
今日は何をしようかな。咲楽と途中まで進めたゲームもあったし、まったり釣りをするのもいいかもしれない。
やれることはまだまだ山のようにある。
いずれ尽きてしまうにしても、今すぐに憂慮すべきことでもない。
のんびりでいいんだよ。
俺は鼻歌交じりにいつもの散歩道を歩き続けた。
すると、何か様子がおかしいことに気がついた。
どこからか、森の形態が少しずつ変わっている。なんというか、こう暗い感じに生い茂っている。
陽の光も少しずつ見えなくなってきた。
どうなってるんだ?
地形や物理的な距離は変わっていないし、とりあえずもう少し行ったら折り返して帰るとするか。
しかし、進めば進むほど視界はどんどん闇に包まれ、次第に明かりはほとんど見えなくなり、森は夜の姿を呈していった。
……なんだか見覚えがある。
乾いた風が吹きつけて、肌が冷える。
いつの間にか気温も幾らか低くなっている。
「あれ」
いつもの道を歩いていたはずなのに、目の前には見慣れない曲がり角があった。
これは……。
今見ている景色が、どんな時に見た景色なのかを、俺は明確に指摘できる。だけど、信じたくない。嫌だ。
だってこれは、あの時の。
そんなはずはない、と俺は震える足を動かして、角を曲がった。
すると——
「え」
少し高いところの太い木の枝に、しっかりと、先端に輪を作った縄が括り付けられていた。
それが一体何に使われるものなのかは、一目で分かった。
◆◆◆
家に戻ると、咲楽が主人の帰りを待っていた飼い犬のように玄関まで駆けつけてくれた。
しかし俺は半ば放心状態で、それを見た咲楽が少し心配そうな顔をした。
何も……知らないのか?
咲楽の表情におかしなところは一つもない。いや、おかしなところがないのがおかしいのだ。
あの森と、縄を出現させたのは間違いなく咲楽だ。なのに、あんなものを出現させたのに、咲楽はいつも通りのままだ。
あんなものが出てきたということは、つまり……咲楽は死にたいと思っているのかもしれないのに、だ。
……何で?
何でだ。
どうして?
ここ数ヶ月ずっと幸せそうだったよ。
朝起きて初めに見る咲楽の表情はいつも笑顔だったよ。
なのに、どうして?
「ちょっと疲れた」と言って俺はリビングのソファで横になり、彼女の姿が見えないように手のひらで両目を覆った。
俺は泣き出しそうだった。悲しいとかそういうのじゃなくて、悔しいとか、そういう気持ちに近い感情だった。
咲楽は何も言わない。
言おうと思えば言えるのは変わらない。
それでも何も話さない。
思い返してみれば、ここしばらく嬉しそうにしている咲楽を見てばかりで、彼女に悩みがあるかなんてほとんど気にしていなかった。
悩みがあるのだろうか。こんなにも幸せで理想的な世界で。
咲楽がペタペタと床を歩く音がする。
段々こちらに近づいてくる。
隣に気配を感じる。
俺は片目を開けて指と指の隙間から外を覗いた。そこには眉をハの字に曲げて不安そうに俺を見つめる咲楽の姿があった。ほんの少し覗くつもりだったけど、目が合ってしまった。
「……大丈夫だよ」
俺は力無くそう呟いた。
咲楽の表情は変わらない。
「咲楽も、大丈夫?」
俺が聞くと咲楽は「何のこと?」と言わんばかりに首を傾げた。
やはり自覚はないみたいだ。
「…………ほら。あれ」
咲楽の頭に疑問符が浮かぶ。
考えても心当たり無し、か。
俺は起き上がって一呼吸すると、彼女にこう提案した。
「…………午後は二人で縄跳びでもしようか。久しぶりにさ。子供の頃みたいに」
チラリと咲楽の方を伺う。
咲楽は「うん」と大きく頷いて、軽く微笑んでみせた。
さて、どうだかな。
結局俺たちは昼食を取ったあと、以前作った公園に向かい、約束通り縄跳びで遊んで、二人跳びだとか仲良し跳びだとか、二人でできる技を一通り試すと、疲れたので何事もなくそのまま家に帰った。
咲楽は「縄」に対して何の反応も見せてくれなかった。




