理想の世界
「さてと! 水鉄砲は持った?」
こくり、と咲楽が頷く。
「浮き輪は?」
こくり。
「ゴーグルは?」
こくり。
「イケてる水着は?」
グッとサムアップ。
「じゃあ、行こうか!」
やっほーい、と声が聞こえてきそうな跳躍で咲楽が玄関を飛び出す。
俺と咲楽は今日、海に遊びに行く約束をしていた。
それはもう典型的なバカンスだ。白い砂浜に青い海、雲ひとつない空。砂浜にはガーデンテーブルが一つと、それを挟む形で二人分のパラソルとビーチチェア。クーラーボックスにはトロピカルなジュースもたくさん用意してある。
咲楽は朝からウキウキで、いつもより2時間も早い5時に起きて、挙げ句の果てには俺の布団を剥いで無理矢理起こしてきた。
ここに来てからしばらく窮屈な思いをして過ごしてきたから、分からなくはないけど、それにしたって16歳にもなってそんなはしゃぐものかな。
とはいえ、俺もまあ、気分が高揚していないと言えば嘘になる。いや、正直凄く楽しみだ。
というのも、俺たちはこの「世界」に来てから「仕組み」を理解するのに1ヶ月、もしくはそれ以上を要しており、その間、それはそれは息の詰まるような暮らしをしていたのだ。
まず、あんなことがあってから、俺たちはただただ暗闇の中を彷徨い続けた。何も見えないから自分が本当に歩いているのかも分からなかった。
腕に感じる咲楽の重みと微かな体温の温かさに多少の安心感をもらいながら、ずっと歩き続けた。
咲楽は俺の名前を呟かなくなっていて、生きていることは分かっていても恐怖感を拭い去ることができなかったのを覚えている。
時間の感覚も鈍くなっていたから本当に気が触れそうだった。もしかしたら1週間近く歩いていたのかもしれない。
そうして少しずつ俺が精神的に衰弱していく中、それが起こったのは本当に突然のことだった。
俺が半ば思考停止して、ほぼ無意識に歩みを進めていた時、画像編集ソフトで背景を差し替えたみたいにパッと周囲の景色が真っ白に変わったのだ。
そして、しばらく真っ白な状態が続くと、今度は青黒いノイズみたいなものがあちらこちらに現れて、モヤの状態から形を形成していくと、それらは段々と草木や空の色に変わっていて、あっという間に俺たちは森の中に放り込まれていた。
本当に訳が分からなかった。
その森は細く背の高い木々が点々としていているもので、所々柔らかく陽の光も差しており、俺が咲楽を見つけた場所とは全く違う生態系を成しているように見えた。
小動物の鳴く声も聞こえて、なんだか幻想的な空間だったと思う。北欧神話にでも迷い込んだのかと思うくらい。
スマホを持ってきていなかったから、位置情報は分からないし、辺りを見回しても抜け道はない。
暗闇から出られた喜びも束の間、不安が止まることはなかった。
そうして俺が困惑していると、咲楽の意識が戻り、咳き込み始めたので、俺は彼女を近くの木の根元にそっと座らせ、休ませた。
まずなぜあんなことをしたのか理由を聞きたかったけど、虚な彼女の表情を見ていると、そんな気には到底なれなかった。
とりあえず俺はもう一度周囲を観察してみたけど、ただただ木々が連なるばかりで、目立ったものは何もなかった。
すると、虚無を彷徨っていた時には減らなかったお腹が減って、喉も渇き始めた。
もちろん俺自身の体調も気にしていたけど、何より咲楽が心配だった。
俺は咲楽を背負って、とりあえず水を確保できる場所がないか探すことにした。
しかし、いくら探し回っても何も見当たらない。どこからか動物の鳴き声が聞こえるからには必ず水や食料の源があるはずなのだけど、何もない。
ただやはり、これもまた唐突に現れるもので、俺が諦めかかって膝を折ろうとしていた時、顔を上げると、そこには先ほどまで存在していなかったはずの大きな湖が広がっていたのだ。
見たところ人間に害のありそうな汚れもなく、底まで透き通った綺麗な湖だった。
困惑を通り越して、何かもうこういうことも起きるものなのだなという境地に達しそうだった俺は、深く考えず、手のひらで水を掬い、それを咲楽の口元に運んで飲ませた。
すると、彼女の朦朧としていた意識が少しずつハッキリして、彼女は俺の方を向くと優しく「ありがとう」と呟いて笑った。
その笑顔を見た俺は安堵のため息を吐いて、その場に座り込んだ。
それからはキャンプというか……サバイバルだった。水を確保できたから、とりあえず数日の命は保証されたけど、食糧なんてどこにも見当たらないし、火の起こし方も分からない。住居も確保しなければならず、常に何かを探し続けていた。昔読んだ漫画の登場人物が靴を食べていたのを思い出してそれを試そうかとも思ったけど、殺菌する手段もなく、当然断念した。
俺たちはもう餓死寸前のところまで達していた。
そんな時——もう意外性も何もないけど——今までの苦労は何だったのか拍子抜けするくらい簡単に食料は見つかった。それも、とても不自然な形で。
明らかに場違いなダンボール数箱が、俺たちの拠点である湖畔に配置されていたのだ。ご丁寧にキッチリ新品で6箱綺麗に積まれていた。
中身を確認すると、コンビニ弁当だとか、スティック状の栄養食だとか、カップ麺だとか、お湯の入った水筒だとか、なんともまあ無作為に色々敷き詰められていた。
俺たちは水と食料を確保したけど、それからもあまり快適に暮らすことはできなかった。
毎晩その辺の落ち葉とダンボール箱で作った簡易的な寝床で夜を明かし、体は湖で洗い、排泄は森の中で済ましていた。
朝目を覚ますたびに起き上がるのが億劫で、関節があちこち痛んで、急に50年くらい歳をとってしまったのかと思うくらい体調は最悪だった。
そして、この世界ではお約束とも言うべきか、「仕組み」を理解するに至った経緯もまた唐突なものだった。
食料の入ったダンボール箱が出現するようになってから2週間近く経つ頃のことだ。
俺はいつものようにダンボールを開封して食料の確認をしようとしていたのだけど、今まで何の規則性もなかったにも関わらず、その日は中身が全部おにぎりだったのだ。それが世界の仕組みを理解するのにどう繋がるんだと思われるかもしれないけど、これが俺の頭の中にある一つの可能性を生み出した。
というのも、おにぎりは子どもの頃から咲楽の大好物で、とりわけツナマヨが好きだったのだけど、ダンボールの中に入っていた何十個ものおにぎりの具が全部ツナマヨだったのだ。
それはつまり、この時受け取った食料は明らかに咲楽の好みを反映しているわけで、もしかするとこの世界に突然出現するあれこれに関しても咲楽の意識が関与しているのではないかということだ。
咲楽はこの世界に来てから前の世界以上に喋らなくなっていて、俺も彼女に何を考えているのかあまり聞こうとはしていなかったけど、この可能性を検証するために、俺は「次回はおにぎりの具をおかかにしてほしい」と彼女にリクエストしてみた。
当然咲楽は不思議そうな顔をしていたけど、次の日湖畔に届いたダンボール箱を確認してみると、大当たり。中身は全ておかかおにぎりだった。
どうやら今まで出現した全てが咲楽の意識を反映していたようだけど、彼女自身は無自覚だったらしく、自由にあれこれ出せるようになってからはここ数年で一番目を輝かせていたと思う。
だけど、ここに来てしばらく食料も何も出現しなかったということは、それまで彼女に生きる意思がほとんどなかったということを意味しているわけで、俺は今でもそれが気掛かりだ。
——と、そんなこんなでこの世界の仕組みを理解した俺たちは開拓を進め始めた。
景観に合う小綺麗なログハウスを建て、電力の供給源も確保し、二人で住むには申し分ない環境を整え、俺たちは初めに現れた森をベースに理想の世界を創り上げた。
今日遊びに行く予定のビーチも咲楽の意識を反映させたものだ。
何せ暮らせると言うだけで何もやることがないから、そりゃもう色々作って遊んだよ。
公園から始まり、映画館に小型遊園地、家ではボードゲーム・カードゲーム・ビデオゲーム。
それからこの世界は暖かくも寒くもなかったのだけど、気温まで変えられてしまうことを知り、季節特有のアクティビティにも挑戦してみようということになった。
それが今日のバカンスというわけだ。
白い砂浜に太陽の光が反射して、肌がジリジリと焼ける。熱い。でも、良い。
咲楽がビーチサンダルを脱いで素足で砂浜を駆けていく姿が眩しい。白いフリルのついた水着がフワリと踊る。こちらを向くと笑顔で手を振ってくれた。何とも愛らしい。
夢みたいな世界だけど、あんなことが起こった現実の方が夢で、こっちが現実なんじゃないかと思う。いやそうであるべきだ。
だって見てくれ。咲楽はあんなにも幸せそうだ。まだちゃんと声を出すことはできないままだけど、まるで子どもの頃に戻ったみたいだ。
咲楽を追いかけるように俺もビーチサンダルを放り投げて走り出す。
アッッッツ。咲楽が地に足つけて走っていたのが信じれない。痛みに鈍感なのか、はやる気持ちが抑えられなかっただけなのか。
浅瀬に入ると、咲楽が俺に向かって勢いよく水鉄砲を放った。俺も負けじと海水を掬って咲楽に投げかける。
キラキラと水飛沫が舞って、視界がぼやける。口に入った海水がしょっぱい。けど、楽しい。
「へへ」
咲楽が笑い声を漏らす。
ああ、幸せだな。
ヘトヘトになるまで遊んだら、パラソルの下でリラックスしながら冷えたジュースを飲もう。夜はバーベキューをして、ハンモックに寝転がりながら星空を見上げよう。
朝は日焼けと筋肉痛で目が覚めて、それを二人で笑い飛ばすんだ。
生きていてよかった。
人生って最高だな。
——しかし、そう何もかも上手くいくわけがないというのが「現実」で、俺はこれからあんなものを目にすることになるとは思ってもいなかった。いや、思いたくはなかった。
……忘れたかった。




