久住奏楽
「あ」
「あ」
微睡むような陽気の中、俺が病院の中庭を散歩してベンチに座っていると、咲楽の妹、久住奏楽と鉢合わせた。
目が合うなり俺の隣に座って、奏楽ちゃんが言った。
「……真守さんは……お姉ちゃんのこと、どれだけ知ってるんですか」
中学生の奏楽ちゃんは咲楽以上に幼く、あの世界で出会った小さな咲楽の見た目をしたあいつを彷彿とさせた。
「どれだけ、か。それは……難しいな」
ちょっと前まで、俺も咲楽のことを何も知らなかった。
「だけど、最近知ったことがたくさんあるんだ」
「……どんなことですか」
「……そうだなあ、信じてもらえないかもしれないけど……」
俺は、奏楽ちゃんには全部話すべきだろうと思い、あの世界で起きた出来事を一通り簡潔に説明した。
「——というわけだ」
当然、奏楽ちゃんは不審者を見るような目つきで俺を睨んだ。
「ま、まあ気持ちは分かる。こんなオカルトじみた話、妄想か何かかと思われても仕方がない。だけどな——」
「……すぎる」
「……え?」
何か言ったらしい奏楽ちゃんに俺は耳を傾けた。
「一緒にお風呂だなんて、ハレンチすぎる!!」
「……えぇ?」
そっちかい。
「私だってお姉ちゃんとお風呂になんか入ったことないのに! 羨ましいぃ!!」
「お、おぅ」
奏楽ちゃんが子どもみたいに腕をぶんぶん振り回して、悔しがっている。
予想外の反応すぎて、逆にどう返したらいいのやら……。
「ていうか、あっちの世界とかこっちの世界とか、その辺は信じてくれるのか?」
俺が問いかけると、彼女は何の疑問も持っていないような顔で告げた。
「当たり前じゃないですか。信じますよ」
「ど、どうして?」
「それは——」
奏楽ちゃんが背を向けて何やらゴソゴソと何かを探っている。
「これです!」
そう言って奏楽ちゃんは、俺の前にデカデカとオカルト雑誌を見せつけてきた。
どっから出てきた?
「えっと、オカルト雑誌だね」
「オカルト雑誌です」
「好きなの?」
「大好きです!!」
奏楽ちゃんの目が、ギラギラと輝いている。
何だか変わった子だなあ……。昔会った時は、もっとまともな子だった気がするけど……。
「この雑誌にも書いてありますよ。並行世界のことだとか、精神世界がどうのだとか」
ペラペラとページをめくって奏楽ちゃんが捲し立てる。
何か言ってるけど、俺には訳が分からない。
「ま、まあ、信じてくれたなら良かった」
「はい!」
奏楽ちゃんは背筋を伸ばして満足げな顔をしている。
「……でも、お姉ちゃんがそんなふうに悩んでたなんて、知りませんでした」
オカルト雑誌をどこかにしまうと、奏楽ちゃんは少し声のトーンを落として話し始めた。
「昔から、お姉ちゃんは何一つ文句を言いませんでした。いつも明るく振る舞って、楽しそうに。妹の私にも、何でも譲ってくれました」
風が吹き抜けて、彼女の髪を揺らす。
「それが、いつからか文句どころか、何一つ言葉も交わさなくなって。お姉ちゃんは何も話してくれなくなりました。それで、ある日お母さんが『どうして喋らないの』って言って、その時のお姉ちゃん……取り繕ってたけど、凄くショックを受けてるみたいだった。多分、こういうのは自然と親の教育のせいだって思うものだから、その親が自覚してないことに傷ついて、それで結局自分のせいにしちゃったんだと思う」
概ねその通りだ。
「だけど、それからずっと平気そうな顔をしてたから。お父さんとお母さんとも話さないけど、ずっと表情が変わらなかったから。私はお姉ちゃんがそんなふうに悩んでたなんて気が付かなかった。あんなことをしてしまうくらいに……」
奏楽ちゃんが膝の上でギュッと拳を握り締める。こういうところは咲楽に似ているのかもしれない。
「私は……お姉ちゃんのこと、理解できてなかったんですね。大好きだったのに、勝手に平気だって決めつけて、助けようともしなかった」
奏楽ちゃんの声に涙が滲む。
「……あのな。咲楽も、奏楽ちゃんのことを分かってなかったんだ」
「え?」
「……咲楽も、本当は咲楽のことが大好きなはずの奏楽ちゃんのことを理解せずに、決めつけて、自分なんかいなくなっちゃえばいいって思ってたんだよ」
「そんな……」
「……だからな。咲楽が目を覚ましたら、お父さんとお母さんも含めて、咲楽と4人で話し合ってほしい。ちゃんと、お互いの気持ちが理解できるようになるまで……頑張ってほしい」
俯く奏楽ちゃんに、俺はそう語りかけた。
「……私、大丈夫でしょうか」
「……」
「私、お姉ちゃんのこと、ちゃんと分かってあげられるでしょうか」
奏楽ちゃんが俯き気味に俺の方を見遣って問いかけた。
「……大丈夫さ、きっと。俺にだって話し合うことができたんだ。だから、妹の奏楽ちゃんにだってできるはずさ。大切なのは、最後まで諦めないことだよ」
奏楽ちゃんが顔を上げて、目を丸くしながら俺を見る。
「……どうした?」
「……いや、案外まともなことを言う人だと思って……」
「おい。俺はずっとまともだっただろ」
「えー。でも、向こうの世界での話を聞く限り、真守さん、相当なメンヘラヤバ男じゃないですか」
「うぐっ」
ぐうの音も出ない。
「……まあ、信じますよ、うん。お姉ちゃんが真守さんと一緒にいるところを前に見たことがありますけど、その時のお姉ちゃん、幸せそうでしたし」
「そうなのか?」
「ええ」
それは嬉しい。
「だから、お姉ちゃんが目を覚ましたら、真守さんも、いっぱいお姉ちゃんとお話ししてあげてくださいね」
「ああ、もちろんだ」
「よかったです」と笑うと、奏楽ちゃんは立ち上がって「もう行きますね」とどこかへ歩き去って行った。
奏楽ちゃんは、咲楽のことが大好きだった。
それだけで、俺は胸の内が暖かくなった。
咲楽が目を覚ました時、俺以外の希望がある。
咲楽も一歩踏み出せる。
俺は咲楽の目が覚める日を、一層楽しみになっていた。
——しかし、この時の俺は、奏楽ちゃんと交わした約束が叶わなくなるかもしれないなんて、思ってもみなかった。




