思い出の縄
時にシリアス、時にセカイ系、時にラブコメ・イチャイチャな恋愛作品です。
伏線を至る所に散りばめましたが、熟読せずとも流れを追っていれば理解できる作りにしてあります。
お気軽に読んでいただけると幸いです。
その日、幼馴染が首を吊っていた。
思えば失うことの多い人生だったと思う。
まだ記憶も曖昧なほど幼い頃に、俺は両親を亡くしている。
葬式でたくさん泣いた記憶はあるけど、俺はそれ以外のことを何も覚えていない。もしかしたら覚えていたくなかったのかもしれない。辛いことは乗り越えるよりも忘れた方が楽だから。
独りになってからは叔母が俺の家に越してきて、養ってもらうことになったけど、叔母は忙しい人で何かと家を空けることが多かった。
それ以前に、元々母と叔母はあまり仲の良い姉妹ではなく、俺を養うのは彼女が親族の中でも独り身かつ経済的に余裕があり、何かと都合が良かったからというだけで、彼女自身には俺を息子として精一杯育てようという気概はなかったのだ。
だから、家は常に耳鳴りがするほど静かな空間だった。
寂しいかと聞かれたら……分からない。
言った通り、俺は昔のことはよく覚えていないし、一人でいることはごく当たり前のことのような感じもする。
何より、外ではいつも幼馴染の咲楽がいたから、俺にはそれで十分だった。
咲楽は隣の家に住む同い年の女の子で、幼稚園・小・中・高校と、長い期間同じ時を共有した仲だった。
それこそ、血のつながった家族よりも一緒にいた時間が長かった気がする。
咲楽は端的に言えばおとなしい子で、あまり内面を曝け出さないタイプの人間なのだけど、これは彼女が人見知りで非社交的だからというわけではない。むしろ子どもの頃は活発なムードメーカー的存在で、比較的落ち着いていた俺とは正反対とも言えるくらいだった。
では何故彼女の口数が少ないのかと言われたら、それは至極単純な話で、声を出すことができなくなってしまったからだ。
ただしこれは物理的にそういった障害を負ってしまったとか、そういうことではない。彼女が上手く声を発することができないのは恐らく精神的なものに起因していると思われる。
というのも、極端に声が出なくなったのは今から3年くらい前、中学2年生の頃だったのだけど、その時期彼女は家族との関係があまり上手くいっていなかったらしいのだ。
詳しくは伝えられていないから俺もあまり深い事情は知らないのだけど、昔から彼女は両親に対してあまり反抗することがなく、不都合があっても文句一つ言わない子どもだったそうで、そんな彼女は次第にどんなことであれ自分の正直な気持ちを親に伝えることができなくなってしまっていたらしい。
それで事あるごとに押し黙るようになってしまい、それが癖になり、声を出そうとすると反射的に喉が塞がるようになってしまったのだという。
そして、それが原因で両親や妹との会話が減り、気まずくなって、何も喋ることができなくなってしまったとのことだ。
ただ、声を用いるコミュニケーションが完全にできなくなってしまったわけではなく、家族以外の人間とは——囁き声にはなってしまうが——一応話すことができている。
また、授業中に当てられた時だとか、公的な場で強制される場合に限りしっかり喉を震わせて発音することもできている。
とはいえ、外でも極力声を発することはなく、俺と一緒にいる時も身振り手振りで意思表示をすることが多い。
たまに「へへ」と息を漏らすみたいに笑う姿がとても愛らしい。そんな女の子だ。
俺と咲楽は何をするにしてもいつも一緒だった。クラスが違っても昼食は一緒に食べて、放課後は一緒に帰って、一緒に遊んだ。
周りからは付き合っているのかだとか色々揶揄われたりしていた時期もあったけど、そんな周囲の声もしばらくすれば全く聞かなくなるくらいには、俺と彼女の関係は周知のものになっていた。
しかし、高校2年生になった現在の俺と彼女はなぜか疎遠になってしまっている。理由は正直なところ分からない。
いつもは咲楽と登下校を共にしていたけど、高校に上がってからいつからか、彼女が登校時間を俺に伝えず早めたり、放課後誰よりも早く下校するようになっていたのだ。
昼休みに校内を探し回っても彼女を見つけることはできず、昼食を一緒に取ることもなくなっていた。
俺を避けているのか、何か都合が合わなくなっただけなのかは知らないけど、こうも不自然に一緒になれる機会が減っていると前者である可能性が高いだろう。
俺はそれを自覚して、今では学校で彼女を探して話に行こうともしていない。当然彼女の家にも行っていない。
彼女と過ごす時間が少なくなると、相対的にクラスメイトと過ごす時間が多くなったけど、俺はずっと満たされない気持ちでいた。
そんな日々がしばらく続いたある日の夜、彼女の父親が突然俺の家を訪ねてきた。「咲楽がまだ帰ってきていないんだ」と。
彼女は家族に対して意図的に迷惑をかけようとするような人間じゃないから、俺も不審に思い、彼女の捜索に協力した。
彼女は高校生にしては幼く見える見た目をしていたし、身体も自分で完璧に守れるほど丈夫とは言えなかったから、何か事件に巻き込まれてしまったのではないかというのが最初に浮かんだ可能性で、俺は無理矢理にでも彼女と一緒に下校しようとするべきだったのではないかと後悔した。
——しかし、そんなことはたった一瞬でどうでもよくなってしまった。
俺たちが住んでいる住宅街には丘の上に作られた大きな公園と、それを囲む森がある。咲楽とは小さい頃その中をよく探検していたけど、今は子どもが入れないように散歩道の入り口がテープで封鎖されている。
人目につく場所をあらかた探し尽くした俺は、最終的にそのテープを跨いで、月の光の入らない真っ暗な木々の下を歩き、ライトであちこちを照らしながら、咲楽の名前を呼び続けていた。
そして、今はもう整備されていない草木の茂った散歩道の半分くらいまで来たところの曲がり角で、俺は何か嫌な予感がした。
静寂の中で、ギィと太い木の枝が曲がるような音がした。
早まる鼓動とは対照的に俺はゆっくり一歩踏み出して、全身に冷や汗をかきながら角を曲がった。
すると、一目で女の子だと分かるシルエットが、やや高いところで揺れているのが見えた。
肩まで伸びた真っ直ぐな黒髪と膝丈のスカートが夜風に触れてサラサラと流れている。
首には透明な縄みたいなものがかかっていて、それが頭部から直接生えているみたいに真っ直ぐ木の枝に括り付けられている。
重く、ギィ、ギィ、と音が鳴る。
そこに吊るされた女の子自身は、恐ろしいくらいに何の音も発していない。
狼狽した俺はすぐに我に帰ると、手元のライトをその影に向かって照らしつけた。
——それは紛れもなく、俺の幼馴染。
久住咲楽だった。
俺は肺と心臓を潰されたみたいに息ができなくなって、苦しくなって、その場に崩れ落ちた。
何で、何で、何で。
辛うじて照らされた咲楽の口元から涎が滴り落ちていく。
俺は声も出なかった。
身体に力も入らなかった。
ただ、揺らぐ瞳で彼女を見つめている。
すると、突然冷たく乾いた強風が俺の頬を叩きつけるように吹いて、森全体が騒めき出した。
目の前でたくさんの木々の葉が激しく揺れている。
そして、風が通り過ぎる間際、咲楽を支えていた太い枝が大きな音を立てながら張り裂けて、重さに耐えられなくなった枝とロープを絡めながら、咲楽の身体がどさりと地面に落ちていった。
「咲楽!!」
俺は膝で地面を擦りながら、必死に彼女の元まで駆けつけた。
壊れた人形みたいに倒れ込んだ咲楽の体を抱きかかえる。
「咲楽!! 咲楽!!!」
大声で呼びかけても返事がない。
俺は彼女が息をしているか確認しようと手のひらを彼女の口元に近づけた。
すると——
「……がはっ、げほっ」
咲楽が大きく腰を逸らして咳き込んだ。
「咲楽!」
彼女は生きていた。
吊るされている中、苦しむ素振りも見せず、声も漏らさず、あんなに静かだったのに。まだ息があった。
「げほっ、げほっ」
「咲楽! 大丈夫か!」
俺は呼びかけ続けた。
「……ま、も……く」
「咲楽!」
彼女はただ息も絶え絶え「真守くん」と、俺の名前を呟き続けている。
俺は救急車を呼ぼうとしてポケットに手を入れ、携帯電話を家に忘れてきたことに気がついた。
どうしよう、どうしよう。
焦れば焦るほど、思考回路はぐちゃぐちゃに絡まって、混乱する一方だった。
とにかく、咲楽を連れて森を出ないと。
俺は彼女の小さな体を胸の前に抱いて立ち上がった。
その際ライトを落としてしまったけど、気にしない。
出口は、出口は。
俺は元来た道の方向を確認して、一目散に足を動かした。
再び風が吹いて、木々が揺れる。
彼女の首元から千切れた縄のようなものが風向きに沿って流れ落ち、視界から消える。
……この縄って。
昔彼女と二人跳びをして遊んだ記憶が一瞬頭を過ぎったけど、今はそれどころではないと、俺は風を切って走り続けた。
咲楽、咲楽。
どうしてこんなことをしたんだ。
どうして何も教えてくれなかったんだ。
どうして俺を避けるようになったんだ。
どうして俺の前からいなくなったんだ。
どうして、どうして。
ただ、ただ、息を切らして、前へと進んでいった。
出口に向かっているはずなのに、どんどん光がなくなっていく。というよりも、さっきまで見えていた出口らしい明かりも視界からすっかり消え去っていた。
それでも、ただ、ただ、走り続ける。
咲楽はまだ苦しそうに俺の名前を呟いている。
早く、早く。
大波のような暗闇が俺たちに襲いかかる。
咲楽、咲楽。
木々の音が遠ざかる。
俺の腕の中で虚な目をした咲楽が呟く。
「ま、く」
——瞬間、何もかもが漆黒に包まれた。
咲楽。
俺のそう呼びかける声がどこかへ消えていく。
五感で感じる全てが濁って重くなる。
さく——
そして、俺たちは虚無の中へと飲まれていった。




