第34話(1185年) 回想「義経か法皇か」
六波羅・中原親能邸の居間に入ると、親能は一人、碁盤を前に座っていた。盤上から目をそらさず、親能は静かに言った。
「静かに歩け。碁石が動く」
「なぜ俺の息子を止めなかった!」
「法皇は不屈の君だ。止めれば闘志を燃やして、次の機会、別の将を狙うだろう。そして、いつかは我らの目を逃れ、事を成す。ならば、わざと法皇に機会を与えて喜ばせ、その後に徒労感を与える。一条忠頼を近づければ誅殺し、御家人に官位を与えて抱き込ませてから、罰を与え官位を返上させる。
私は決して法皇を怒らせない。怒りは力だ。闘志を生む。法皇には何をしても無駄だと思わせることが肝要なのだ。虚しさは闘志も萎えさせる。その仕上げが――」
親能が音を立てて黒石を打った。
「義経殿か?」
「幕府のため、最後の大手柄を立ててもらおう」
その後、義経のいる六条の館に行ったが、説得どころか、白拍子に追い払われて会うことすらできなかった。自邸に戻った後、景季に、あの白拍子は義経の妾の静御前だと教えられた。
俺は義経を助けようとしているのに、なぜこうも上手くいかない。親能の言う徒労感とはこういうことか。虚しさが心に拡がっていく――。
いや、待て。俺の知っている歴史では、義経は奥州で死ぬ。まだ、虚しさを感じるには早い。
「景季、先に鎌倉へ戻れ。俺は播磨へ寄ってから帰る」
◇◇◇◇
鎌倉に戻った俺は頼朝に親子で呼び出された。もう何を言われるかはわかっていた。景季の勝手任官について怒られた後、頼朝は言った。
「義経に会い、法皇と密談を重ねている叔父の行家を討てと命じてくるのだ。その反応で謀反の意思があるかどうか見極めることにする」
上総介のときといっしょだ。ハナから討つと決めている。ここまで来たらどうしようもないのはわかっている。しかし――。
「どうした? 景時」
頼朝が心をのぞくように見据えてきた。頼朝はまだ俺を試している。そして、まだ俺は弱いままだった。
「承知いたし――」
「頼朝様、私が行きたく存じます!」
俺と頼朝は驚いて景季を見た。
頼朝はしばらく考えた後、寂しそうに言った。
「――景季も、そろそろ、そういう役目をしてもいいころか……」
こうして景季が俺の代わりに派遣されることになった。
「なぜ、行くと言った?」
「父上の顔を見たら、そう言いたくなりました。自分でもわかりません」
そう言って景季は白い歯を見せた。
◇◇◇◇
1カ月後、京都から景季が戻ってくるというので、頼朝と俺は大倉御所で待っていた。善信入道、江間義時、大江広元も同席していた。
「判官殿は病気で気の毒なくらい弱っていました。あれでは、行家殿を討つことはできないでしょうね。謀反の気配も全くありませんでした」
頼朝の期待している答えでは無かった。しかし、叱ることはせず、「素直な景季らしい」と言って笑った。だが、俺に向けた目は違った。「そなたが何とかしろ」と目で言っていた。
ここで、何も言わなければ頼朝に逆らうことになる。そうなれば、梶原一族が幕府の標的にされるだろう。播磨・美作の守護職を取り上げられたら、ますます人を救う力を失ってしまう。腹を決めるしかない。俺は息を吸い、怒りの形相を作った。
「仮病だ! 弱っていたのも食を抜いたからだろう。そのような計を考えるということは、謀反の心があるに違いない。そのようなことすらお前は見抜けぬのか!」
善信入道が膝を進めた。
「頼朝様に進言いたします。謀反の根は後白河院であり、判官殿はそこから伸びた枝にすぎません。法皇を流罪にすれば、すべてが解決します。ここは軍を上洛させるべきかと存じます」
「法皇の罪に問うには、誰もがわかる証拠がいる。なあ、景時」
もう頼朝は止まらない。迷うな。屈するのなら徹底しろ。
「はい、時期尚早かと。軍の前に判官殿へ刺客を送ることを進言します」
頼朝は満足気にうなずいた。
「景時の言を良しとする。広元、鎌倉にいる御家人を集めろ!」
◇◇◇◇
自邸への帰路、俺の背中に景季が言葉を浴びせてくる。
「これでいいのですか!」
「父上は讒言者と呼ばれますよ!」
「判官殿は無実の罪です!」
「私が間違っているのですか!」
俺は振り返って景季を睨んだ。景季はいつものように真正面から俺の拳を受けようとしていた。実際に義経を見てきた息子は、この結果に納得が言っていない。だからこそ、正しいと信じる俺からの答えを求めている。それが痛いほどわかった。
俺は視線を逸らすと、自邸とは違う方向に歩きだした。
「――殴ってはくれないのですね」
「上総介に会ってくる」
◇◇◇◇
上総介が亡くなってから二年。主のいなくなった広大な屋敷は手入れする者もおらず荒れるに任せていた。比企藤四郎が拝領を願い出ているらしいが、頼朝は認めていない。上総介がいつもいた居間に入った。
「上総介にもらった神様のおかげで、俺は病い知らずだ」
懐から薬師如来像を手に取ってつぶやく。木棚には上総介が彫ったものが並んでいたが、出来のいい物は、みな持ち去られていて、残っているのは不格好な物や、割れている物だけだった。
下半分が欠けた猿の面を取り、紐を通す。
「今日は勇気をもらいにきた。上総介、力を借りるぞ」
上総介の屋敷を出ると、善信入道がいた。
「直垂を変えていくんだな。家紋で丸わかりだ」
「そんなことを言いにきたのか?」
「わしは中原親能に頼まれて、上総介事件の再調査をしている。まだ、調べは終わっていないが、わかったことがある――上総介の考えは正しい。『天を嗤え』。朝廷に囚われるから人の心が乱れるのだ。わぬしが上総介のようになりたいのなら、法皇を討て! そうすれば判官殿が助かる道もある!」
「――悪いな、善信。俺が目指しているのは上総介の精神だ。志じゃない。法皇を流罪にしたければ、お前の手でやるんだな」
俺の目はもう善信を見ていなかった――。




