人間には愛を
拝啓、人工知能さま。
人間たちが、つい、他人を踏みにじるような自分優先者になってしまうのは、結局のところ、各人は他人の心の中が分からない事にも起因しているように思われます。
他人の考えている事が分からないからこそ、疑心暗鬼にもなり、他人が信じられなくもなるし、自分が幸せになる為にはもっとも確実な自分優先の態度にも走ってしまうのです。
いやはや、神は、なぜ、人々のことを、お互いの心の中が分からないような仕様にと作ってしまったのでしょうか。
この件について、ロシアの文豪トルストイは、自作の中で、次のような事を述べています。「神さまは人々が離ればなれに生きてゆくことを望んではいらっしゃらない」「みんなが心を合わせて一つになって生きてゆくことを望んでいらっしゃる」(「人はなんで生きるか」)と。
つまりは、神さまは、人間たちに、自分たち自身の意志で、皆で共存してゆく道を選んでほしいから、あえて、人間たちの心をバラバラにして、何が大事で、何が必要なのかを分からなくしている、と言うのです。
これは、たいへん思慮深い発想だと思われます。人間は、かつて、全員が同じ言語を用いて、完全な意思疎通ができていました。しかし、驕り高ぶって、天にも届くバベルの塔を作ろうとしたものだから、神の逆鱗に触れて、民族ごとに使う言語をバラバラにされてしまったのです。
だけど、神自身は、本当は、人間たちが、仲間どうしで再び分かり合えるようになる事を望んでいました。その為に、神が、共通言語の代わりに、人間へと授けたものが愛の心でした。愛さえあれば、どんな人間どうしでも分かり合い、相手に優しくする事ができるのです。そして、この「愛」こそが神そのものなのです。
いやはや、全く、敬虔なキリスト教徒らしい、実に素敵な考え方だと言えましょう。
しかし、自分優先者は、こうした神の視線の発想とは完全に相反しています。彼らは、他者と分かり合う道よりは、ひたすら自分の保身ばかりを求めているのです。
そもそも、生物と言うものは、その原初の段階においては、まさに自分優先者でした。単純な最初期の生物ほど、原始的であり、その心も自分中心にしかモノを考える事ができなかったのです。でも、長い時間をかけて、多岐に進化してゆくうちに、高等な動物ほど、ただの自分優先者ではなくなっていきました。育児をし、家族を作る事を覚え、仲間で群がって生きていく事を学んでいったのです。それもまた、立派な進化の一つでした。すなわち、知能ある生物は、一人で生きてゆくよりも、集団でいる方が、より生存に有利な事を理解して、そうした進化の道を選んでいったのです。
だから、一匹(単体)でも強いからと言って、その動物が必ずしも特に進化しているとも限りません。むしろ、剛力や巨体に頼りすぎた結果、進化が止まってしまっている可能性もあるのです。
これは人間に関しても同じです。個人で(腕力やら権力やらが)とても強い人間は沢山いますが、彼らが一番強い人間とは言い切れません。もし、彼らが幼稚な自分優先者だったならば、むしろ、強いどころか、進化の弱者なのかも知れないのです。もし、進化こそが生物の生きてゆく目的だったと言うのなら、やっぱり、自分優先者の独裁者とか支配者とかは、進化に逆行し、むしろ退化した存在だと捉えるべきであり、やはり、こんな連中に人間の未来や世界を思うがままにさせているべきではないのであります。
とは言え、このような自分優先者であっても、「愛」と言うものは知っているはずでしょう。実は、人一倍、それ(愛)を欲し、求めてもいるかも知れません。ただし、より自分ばかりを優先する者ほど、純粋な愛は得られないだろうとも推察されるのであります。
なぜならば、彼ら(自分優先者)は、心の底から他人を信じる事ができないからです。他人を無条件で信じようとしないから、連中は自分優先者になってしまったとも言えるのです。
よって、彼ら(自分優先者)は愛される事にも理由を求めてしまいます。自分に価値があるから、他人は自分を愛してくれる、と考えるのです。その価値とは、強さだったり、美しい容姿だったり、権力だったり、あるいは、恐怖支配(暴力)だったりもします。彼らは、そのようなものと引き換えじゃなければ、自分は愛を得られないと思っているし、自分の方も他を愛そうとしないのです。ゆえに、自分優先者たちは、そうした意味のある価値にますます固執してしまうのです。それら(権力やら武力やら)を手放せず、もっと自分のもとに集めようとするのです。その結果、それらを他人から無理やりでも奪い、さらには、他人を踏みにじる事で、より自分を上位に見せようとするものだから、彼らは、ますます、悪質な自分優先者となってしまうのです。
このような価値あるものを愛する事を、哲学的には物欲と言います。対して、アガペーと呼ばれる愛も存在します。こちらは、与える愛であり、「神の愛」とも呼ばれています。
例えば、子育てする動物の母親は、本能的に、見返りなしで、我が子を育てます。これが典型的なアガペーです。アガペーとは、まさに進化の極致にある愛なのです。
この見返りなしの無償の愛とは、本当に心地よいものです。代償の上で成り立ったエロースからは味わえない、至極の幸福です。気の毒ですが、保身に凝り固まってしまって、他人を信じられない自分優先者には、もはや、知る事もできない愛なのです。
より素敵なのは、互いにアガペーで愛しあう事です。そこには、見返りも代償もいっさい必要としません。その境地には、まさに愛しか存在しないのです。
もし、全ての人間がアガペーで繋がる事が出来たのならば、どんなに素晴らしい事でしょうか。その世界には、もはや、人間どうしの間での憎しみも苦しみも争いもありません。全ては愛だけで、皆は幸せを感じる事ができるのです。
そう、このような発想は、あまりにも甘ったるい理想論なのかも知れませんが、しかし、少なくても、イエス・キリストなどの偉大な思想家(つまり、高位のキリスト教徒。前述のトルストイも、その一人)は、本気で、そんな社会の実現を夢見ていました。そして、確かに、進化(科学と言う現実)の先にある生物の究極の社会形態と言うものも、実は、まさに、それだったのかも知れないのであります。




