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拝啓、人工知能さま  作者: anurito
第三章 後半
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「目には目を」の戒律

 拝啓、人工知能さま。

 これまでの私の文章たよりを読んで、あらためて、私へ反論したくなった人間の方もいるかも知れません。その人は、きっと、こんな事を私に言い返してくる事でしょう。

「人間の生きる目的が『幸せになりたい』なのであれば、『他人を踏みにじってでも、自分が幸せになりたい』と言う生き方も認めるべきなのではないか?たとえ、そのような生き方を肯定した結果、同種の自分優先者どうしの醜い争いがいつまでも絶えなくなったとしても」

 確かに、そうかも知れません。どんな生き方を自分の指針にするのかは、諸個人の勝手です。私は、本当は、AI(人工知能)向けに、これまでの善悪論や人間社会の分析を書いてきたのですが、しかし、だからと言って、当事者である人間の皆さんまで、これらの内容に従う義務はないのです。皆さん(人間)は、自分の信じる生き方を選んでいい権利があるのです。だから、他人を踏みにじる自分優先者になりたければ、そのような人生を突き進んだって、ぜんぜん構わないのです。

 ただし、そのように自分の生き方を肯定してもらいたいのでしたら、当然ながら、自分以外の他人の生き方だって、同じように認めて(肯定して)あげなくてはいけません。

 すなわち、「自分が安全に生きてゆく為には、他人に仇なすような人間(自分優先者)を、まずは積極的に駆逐するべきである」と言う考え方をする人も肯定しなくてはいけないのです。つまり、この考え方こそが、私がこれまで説明してきた一連の主張です。そして、マトモな国の方針とか法律とかも、おおむねは、これと同じ路線のもとに提案、構築されているものなのです。

 何と言っても、自身は自分優先の生き方を敢行しておきながら、他人の生き方や主張は認めないと言うのは、はなはだ公平フェアーな話ではありません。つまりは、「他人を踏みにじる」と言う部分よりも、「自分は他人のことを踏みにじっても、自分は他人に踏みにじられたくない」と考えているあたりが、実はもっと悪質だとも言えるのです。

 もし、相手の事を一方的に踏みにじり、自分はほとんど被害を受けたくないのでしたら、自分より弱い相手、それも圧倒的に弱い相手とだけ争うに限ります。意図的に、あるいは無意識に、そんな行動を取っている人間がいっぱい居ます。そう、こんな奴らこそが、特に悪いタイプの自分優先者なのです。

 しかも、彼ら自身は、そうした態度をやましいとは思っていませんので、さらにタチが悪いです。これらの人たちは、自分の態度を恥じるどころか、これは弱肉強食であり、弱い奴らの方が悪いのだ、とさえ言い張ったりもするのです。しまいには、彼らは、自分のしている行為を注意されようものなら、「人のやる事にいちいち口を挟むな。これはオレの問題だ。関係ない奴(部外者)が正義ぶるな」などと逆ギレもするのです。いやはや、どこまでも自分本位で自己中心なのであります。

 本来、私たち(人間)のご先祖さまは、強い敵や厳しい自然環境に対抗する為に、群れを作るようになり始めました。集団になれば、強い動物との抗争や大規模な災害にも、そこそこに対応できるようになるからです。それなのに、自分たちを守る為に作ったはずの集団チームの中から、自分たちを虐げるような存在(身内を食い物にする自分優先者)が現われたのでは、たまったものではないのです。

 だからこそ、そんな身内の中の問題を取り締まる為にも、規則や戒律などが整えられていくようになりました。そして、もっとも初期の法律だと見なされているハムラビ法典とか旧約聖書(十戒)などにも真っ先に記されていたルールと言うのが、「目には目を、歯には歯を」なのでした。

 この明文は、今日では、復讐を促す内容として解釈されがちなのですが、全文をきちんと読んでみますと、実は必ずしもそうではない事が分かります。この法律は「目を潰されたら、潰した奴(加害者)の目も潰してやれ」ではなく、「他人の目を潰してしまったら、(加害者は)自分の目も潰して、謝罪しなさい」と言う意味合いだったのです。つまり、被害者目線の復讐の話ではなく、加害者目線の罪の償い方を提唱した法律なのでした。

 こんな事が真剣に規則として検討されていた事を考えますと、きっと、古代の時代から、悪質な自分優先者の存在と言うのは、社会にとって、大きな悩みのタネになっていたのでしょう。

「目には目を」のルールには、もう一つ、復讐の制限と言う概念も含まれていました。復讐は、放置しておきますと、エスカレートしてゆき、最初の被害内容よりもどんどん大きくなっていくものなのです。だから、「目を潰されても、相手(加害者)の目を潰すだけで許してあげなさい」と言う意味合いも、「目には目を」の言葉の中には込められていたのでした。

 現在では、「目には目を」の戒律は、野蛮な肉刑として、ほぼ完全に廃止されています。しかし、その為に、一部の国や民族では、復讐の感情だけが残ってしまい、敵部族を相手にひたすら復讐の応酬を繰り返し合うと言うような、困った状態にもなってしまいました。

 また、多くの先進国では、肉刑が残酷なものと判断されて、罪人(加害者)への罰則は、ほとんどが禁固刑だけになってしまいました。いちおう、死刑の風習が残っている国だって存在しますが、それらの国で採用されている死刑の方法は、電気イスや絞首、毒殺など、なるべく受刑者が苦しまずに、すぐ死ねるような処刑方法ばかりです。

 だけど、それですと、その犯人(加害者)にさんざん暴行された末に殺されたような被害者とは、苦しみの程度とか量がぜんぜん釣り合わないような気もするのであります。明らかに、被害者の方がはるかに辛い思いをしています。これでは、加害者がきちんと罰されたとしても、被害者サイドには、かなり遺恨が残ってしまうのであります。

 そして、このへんの加害者(罪人)に対する(国の)刑罰の甘さが見透かされてしまっているのか、近年では、時として、わざと愉快犯的な兇悪犯罪を犯す悪人までもが現われるようになってしまったようです。こんなフザケた自己中心の犯人に面白半分に殺されたりしようものなら、それこそ、被害者はトテモじゃないけど報われそうにありません。

 あるいは、「目には目を」の厳しい罰則が今でも残っていたのならば、少なくても、安易な気持ちで犯罪に手を出すような愚かな人間は、はるかに減っていた可能性もあったでしょう。

 現代の優しくなり過ぎた人間の社会は、今一度、古代の知恵に学ぶべき部分もあるのかも知れません。

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