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拝啓、人工知能さま  作者: anurito
第三章 後半
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裁判制度の欠点

 拝啓、人工知能さま。

 前回、私は、国の法律がそのまま正しい善悪(正義)だと考えている人間がいる事をお話しました。そこで、今回は、そのような考えが、いかに適切でないかを、あらためて解析したいと思います。

 そもそも、国の法律なんて、各国でけっこう大きく違っているものなのです。なぜならば、どこの国の法律も、その国のお偉方が判断して、定めたものだからです。だから、法律の基準なんてものは、その国のトップの判断によって、いくらでも変わってしまうものなのであります。

 例えば、麻薬ドラッグの扱い一つ取っても、それが合法の国もあれば、犯罪となる国もあるのです。我が国・日本は、麻薬に対しては、かなり規制が厳しい国だとも言えます。ゆえに、外国では麻薬を吸うのが普通だった人も、日本で同じ事をすれば、一気に悪者(犯罪者)にもなってしまうのであります。

 まあ、麻薬は実際に人体に良くないので、禁止されても、何となく納得できる部分もあるでしょう。しかし、悪質な独裁国家の場合、政府への非難すら、禁止したりもします。すなわち、自分たち(政府)に逆らうこと自体を「犯罪」に見なしているのであります。そんな国では、悪い独裁者と戦う事そのものが、法律上では「悪」にされてしまっています。果たして、それでも「法律は常に正しい」と言い切れるものなのでしょうか。

 いや、法律絶対主義者にしてみれば、なおも「たとえ悪政であっても、法律には従わなくてはいけない」などと言い張るのかも知れません。その法律の内容に、心の中では反感を抱いたとしてもです。

 そして、あまりにも、自分の本心と法律の乖離が大き過ぎた場合は、法律第一主義者たちは、今度は、こんな事を言い出すのです。「法律を守っているフリさえしてればいいのだ」とか「バレなければ、法律なんて破ってもいいのだ」なんて。

 もしかすると、このへんのグレーな考え方をしている人間が、世の中には一番多いのかも知れません。確かに、裁かれさえしなければ、法律を守ろうが、破っていようが、どっちも同じなのです。

 ところが、この発想にヘタに落ち着いてしまいますと、どうも歯止めがきかなくなってくるのであります。すなわち、人を殺そうが、モノを盗もうが、自分が犯人だとバレなければ、いくら実行してもいいと言う事になってくるのです。実際、泥棒や人殺しのほとんどは、自分が罰せられる前提では、それらの悪事は行なっていません。彼らは、要はうまく誤魔化せればいい(自分が犯人だとバレなければいい)と考えているものだから、そんな悪い事(窃盗や殺人など)を思い切って行なってしまうのです。そして、そんな人間が多いからこそ、治安のかなり良い国であっても、いっこうに犯罪は無くならないのでした。

 全ては、法律に善悪(正義)の基準を置いているから、こんな逆説的な発想で、悪に身を落としてしまう人間も出てくるのです。それどころか、こんな発想のもと、「悪い事をした方が得をする」なんて短絡思考が国民の中で主流になってしまいますと、いくら法律や警察があっても、国内は犯罪だらけになって、すっかり荒れてしまうでしょう。

 でも、だからこそ、悪い事をした人間は確実に取り締まり、厳格な裁判を行なって、悪人については適格に罰していくべきなのだ、と主張する方もいるかも知れません。

 いえいえ。現実には、この裁判のシステムの方だって、本当は、そこまで信頼が置けるものでもないのであります。

 従来、古代の社会や原始部族では、近代風の裁判のやり方は無く、罪人を裁く任務は、王様や首長が引き受けていました。王様や首長が一番偉いからではありません。彼らは、絶対なる神様の代行者だったからです。つまり、裁判とは、もともと、政治の業務の一つなどではなく、神聖なる神の裁きを地上に移行したものだったのです。

 万能の神の前では、嘘や小細工は通用しません。悪い事をしたら、確実に断罪されてしまうのです。よって、王様や首長が取り仕切る裁判もそのようなものでなくてはならず、裁判の座で、出席者が嘘をついたり、知らないフリをする事は許されませんでした。

 裁判とは、本来、そこまで純粋に徹底して正義を遂行する場だったのです。実際に、キリスト教系の国家の裁判では、現在でも、聖書に宣誓してから裁判を始める習わしが残っています。もっとも、外国の裁判の仕組みをそっくり受け入れてしまっただけの日本のような国では、そうした裁判の神聖さが理解しきれていない部分もあるのかも知れません。

 のみならず、善なる神など信じていない悪人たちも、そこまで真摯に裁判に向き合ったりはしないでしょう。彼ら(悪人)は、神の信者である以前に、やっぱり、自分優先者ですから、裁判の座でも、保身の為に平気で嘘をつけるのです。いや、それどころか、裁判そのものですら、卑怯な戦術を使ってでも勝てれば、それで良いと考えているものなのです。

 そして、世の中が、近代的な科学時代に移ってゆく事で、ますます、神の絶対性とか信仰心は廃れてゆきました。そのような合理的な現代社会においては、卑劣な悪人だけではなく、多くの人間が、裁判の神聖さを忘れてしまい、裁判を単なる駆け引きの場としか見ていないようなのです。

 ただの駆け引きなのでしたら、ムリに正直になる必要もありません。自分の方が悪かったとしても、権謀術数を使って、相手を出し抜いて、自分の方が勝てれば良いのです。

 一部の人間たちにとっては、裁判の場も、すっかり、そんな取り引きの空間になってしまいました。彼らは、裁判の座で真実を追求する気はさらさら無く、自分が勝つ事しか考えていないのです。だから、この人たちは平気で偽るし、他人に罪もなすりつけます。

 しかも、近代の裁判では、弁護人と言う制度が設けられています。その為、仮に被告(罪人)自身がマヌケでも、この弁護人(弁護士)さえ優秀ならば、一転して、裁判を有利に進める事もできるのです。

 なおかつ、この弁護士と言うものは、被告自身が自由に選ぶ事もできます。すなわち、被告が金持ちならば、自分と全く関係のない、でも、とても優秀な弁護士だって雇える訳です。現代の裁判では、この弁護士の腕一つで、確実に有罪だった人間ですら、無罪にできてしまう場合もあります。そう、ここでも、やはり、金持ちとか権力者などの方が、明白に有利だと言う事なのです。

(ちなみに、裁判内での卑怯行為をAIによって取り締まる方法につきましては、「冤罪対策は人工知能で」を参照のこと)

 ついでに言っておきますと、裁判を行ないますと、特に民事の場合ですと、やたらと裁判費用や時間などが必要になってきます。裁判所が遠くにありますと、さらに交通費や移動時間などもかさむ事になります。つまり、裁判で戦いたくても、普段の生活だけで精一杯のような貧乏人では、資金面の都合などで、自分の気の済むまで裁判を続行できなかったりもするのであります。この点でも、裁判と言うシステムは、金持ちよりも一般人の方が圧倒的に不利だとも言えましょう。それどころか、すっかり裁判をやり慣れた金持ちとかも居まして、そんな金持ちは自分専門の敏腕な弁護士さえ普段から子飼いにしていたりもする訳です。

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