表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
拝啓、人工知能さま  作者: anurito
第三章 後半
86/99

勝ち組の欺瞞

 拝啓、人工知能さま。

 私たち人間は、自由に生きられる社会に憧れ、少し前の時代に、一部の国は独裁君主制と別れを告げました。そして、身分による(人間の)分類と言うシステムを廃止したのです。そのはずでした。しかし、実際のリアルの社会では、依然として、人と人、集団と集団の違いによる差別や隔絶は続いていたのでした。

 この保守的で閉鎖的な状態は、その集団内にとすっかり馴染んで幸せを感じていられるような者には、何の影響もありません。全くの無害なのです。

 ところが、他の集団や組織との比較があった時、そこには次々に不幸のきっかけが浮かび上がったのでした。

 中でも特に目立ったのが、集団どうしの貧富の差です。お金(財産)を持っている個人や集団はやたらと持っているし、一方で(私財を)持っていない個人や集団はひたすら貧乏なままなのです。

 また、封建時代の差別的なものも、相変わらず、続いていました。封建時代に優位な立場にいた個人や団体は、革命後の民主主義の社会においても、やっぱり、上級の市民、上位の人種と見なされる傾向にあったのです。彼らは、仲間うちで群がる特徴があり、自分たち以下と見なした人間の事は、あからさまに近づけたがりませんでした。彼らは、保守的な集団の中でも特に閉鎖的だったのです。しかも、そんな集団に限って、最初から、地位や財産を独り占めにしたりしていました。

 その結果、相変わらず、財産や権力と言ったものが、一部の人間だけに独占され続けると言う状況が発生したのです。にも関わらず、今が自由な社会である事を理由にして、独占者たち、いわゆる「勝ち組」を自負する連中は財産や権力の集中を正当化し続けたのでした。

 でも、当たり前と言えば、当たり前の話なのです。せっかく自分のもとに財産や権力が集まっているのならば、進んで手放したがるはずがないのです。かつての専制君主や独裁者たちがそうだったように。

 そして、大多数の平凡な大衆は、そんな自称・勝ち組たちの口車に乗せられ、自分たちが不公平で貧困で見下された身に置かれているにも関わらず、今もなお、ずっと、ごまかされ続けたのでした。

 今日、裕福で(財産も特権も)持てる人々は、たいてい、このような理屈を口にしています。「現代、我々が成功者なのは、それだけ沢山の努力をしてきたからだ」と。加えて、具体的な努力エピソードとかも披露したりしますので、ピュアな一般人たちは、ますます、連中の話にあっさり納得してしまいます。そして、自分たちが不幸で貧しいのは、努力不足だから仕方がないなどと信じ込まされてしまうのです。こうして、一部の権力者や富裕層が、まるで、それが摂理かのように、他の人間の上に君臨し続ける事ができるようになるのです。

 だけど、ちょっと待ってください。それって、本当に正しい話なのでしょうか。この私たちが住んでいる「自由な社会」とは、本当に、本人の努力だけで優劣が決まっているものなのでしょうか。

 例えば、〇〇大学に入りたいと考えます。大学に受かりたければ、まずは当然ですが、その大学の採用試験に受からなくてはいけません。入学試験を突破したければ、勉強をする必要が出てきます。この「勉強をする」と言う行為が、恐らくは努力に当たるのでしょう。ところが、この勉強量は、必ずしも、努力とは比例していないものなのであります。

 いっぱい勉強しても、結局、志望校に落ちる人たちがいます。他方で、ほとんど試験勉強をしなくても、あっさり難関校に受かる人もいます。つまり、勉強量(努力)が常に絶対でもないのです。

 なぜ、努力が少なくても、目的を達成できる人たちもいるのでしょうか。理由は簡単です。人間は、生まれた時点で個体差があるからです。記憶力が優れた人もいれば、考えるのが苦手な人もいます。その時点で、同じ量の努力(時間の量)をしただけでは、ぜんぜん同じ結果は出せないのであります。

 つまり、努力するのに越した事はありませんが、生まれた時点で、あまり努力しないでも優れた生き方ができる人も沢山いると言う事なのです。これを一般的に「才能」とも言います。元から才能がある人は、平均的能力の持ち主で後から努力する人よりは、やはり、圧倒的に有利なものなのであります。

「生まれつきの才能ならば、仕方ないじゃないか。才能のない奴は、自分の生まれつきの運の無さを認めて、素直に諦めろ」なんて事を言う人もいるかも知れません。それが当然だと思い込んでしまっている人も多い事でしょう。

 しかし、実際のところは、その一言では納得できないような「生まれつき」の要素も存在するのであります。それが「環境」です。劣悪な環境に生まれてしまった人の場合は、仮に才能があったとしても、努力しない凡人にすら勝てない事もあるのです。中でも、やはり、育った環境の貧富の差の問題は、かなり深刻なのであります。

 大学の話を再び例にすれば、現実には、採用試験に受かる才能だけでは、その大学で学び続ける事はできません。一方で、学費も支払っていく必要があるからです。貧乏な家では、もし(頭がいいと言う)才能があったとしても、学費が払えなくて、大学に行けない場合もあります。また、学費を稼ぐ為に、お金を稼ぐ労働に時間を割いて、結果として、勉強する時間(努力する余力)が足りずに、入学試験に落ちると言うケースもあるでしょう。いずれも、育った環境(家庭)さえ裕福であれば、生じなかったような問題なのであります。

 ここで、話は、今回の通信たよりの冒頭部分に繋がります。

 自由な民主主義の社会とは言っても、そこには、すでに貧富の差や優劣の差が存在しています。貧しい家庭や見下された人間や人種は、はじめっから、他の人よりも何倍も努力して、いっぱい苦労しないと、一般人や自称・上級市民たちと対等になれない環境が出来ているのであります。そんなの、ぜんぜん、公平だとか平等な世界とは言えないのであります。

 すると、こんな指摘に対して、自分は勝ち組だと思い込んでいる独占階級の連中は、「恵まれた環境に生まれて来れるかどうかは、いわば運命なのだ。不遇な環境に生まれてきてしまった人間は、自分は運が無かったのだと考えて、不服は言わずに諦めろ」などと反論してくるかも知れません。

 しかし、「生まれた環境は運命」であり、それを否定してはいけないと言う事になると、当然、暴君だった専制君主や独裁者の事も受け入れなくてはいけない話になってしまいます。と言うのも、彼らが専制君主や独裁者だったのは、それが「彼らの生まれた環境」だったからです。だから、「生まれた環境による勝ち組」を肯定する事は、専制君主や独裁者を倒して、自由な民主主義の社会を作る、と言う行為自体の否定にもなってしまうのであります。

 そして、専制君主や独裁者を倒したように、生まれた環境による勝ち組や富裕層もやっつけて、我らの共同体の中から連中を無くしてしまえ、と言う極端な発想に走ってみれば、それは社会主義の思想にとたどり着くのです。もっとも、社会主義の国家がうまく行かなかったと言うのも、これまでに何度も繰り返しお話した通りです。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ