自由主義と言う幻想
拝啓、人工知能さま。
前回の通信で、私は、独裁的な王制国家でも、自由を謳う民主主義国家でも、その社会構造はほとんど変わらない事を鋭く指摘しました。今回は、その実情を、もう少し細かく説明したいと思います。
19世紀前半ごろから、ヨーロッパの先進国では、国の体制の自由化が一気に進む事になりました。ある国では王族が駆逐され、別の国では、王の存在を残したまま、政治形態だけが民主制に移行していったのです。その余波は、我が国・日本にまで及び、明治維新による封建制度終焉を実現しています。
さて、そのように社会の仕組みが変わった事で、果たして、民衆は本当に自由となって、幸せになれたのでしょうか。
確かに、国の民主化によって、多くの国で身分制度は廃止されました。しかし、実際のところは、それだけの話なのです。法律上は、なるほど、身分の違いは無くなりましたが、でも、本質的な部分では、人々の差異は、相変わらず、何も変わってはいなかったのであります。
例えば、身分の枠組みが取っ払われた事で、国民たちは、自分の意思・意見で、自由に仕事や結婚相手を選べるようになりました。では、その事で、すぐに、各身分の混合が進んだでしょうか。いえいえ、現実問題としては、それほど安易な訳でもありませんでした。民主主義の社会になっても、その国内では、依然として、同じ身分、同じ職種、同じ人種の人間ばかりが集まり続けて、今まで通りのグループを形成していました。その状況は、現在でも、なお続いています。なぜならば、平凡な個人としては、やはり、親しみ馴染んだ今の職種や同族の人種や民族の中にいた方が過ごしやすいからです。わざわざ、その居心地の良い共同体から飛び出して、未知の仕事についたり、他民族の異性と結婚するような(危険を伴うかも知れない)冒険をする必要も、特になかったのであります。
しかも、それは逆も言えます。
多くの人々が、勇気を出してまで、わざわざ、身分違いの場所に行きたがらなかったように、一方で、集団や組織と言った存在もまた、自分たちと違う職種や身分、人種の人間に対しては、不必要なほどの偏見や警戒心を持ち、まずは壁を作りました。その結果、せっかく強い冒険心や志し、希望を持った者が、他業種や他身分、他民族の中に進んで混ざろうとしても、簡単には打ち解けてもらえず、最初に、そうしたコミュニケーションを取る事に、大いに苦労させられたのです。それと、当然の話ですが、相手の組織や集団があまりに排他的で、閉鎖的すぎる場合は、ついには、その集団に加えてもらえずに終わってしまうような事もザラだったのでした。
どんなに、法律や制度として、人間の自由や平等が認められたとしても、人間自身の持つ不自由な村意識みたいなものは、革命後の民主主義の社会であろうと、公然と残り続けたのであります。そして、民主主義の政府やイデオロギーは、そうした村意識も「自由」の一つだと考えましたので、ほとんど問題視はせず、干渉もしなかったのでした。
結果として、諸個人の自由や権利が尊重される現代社会においても、この内在的村意識みたいなものが起因となって発生する事件やトラブルがいっぱい起きています。その事に、各国の政府やお偉方は、卒中、頭を悩まされているのですが、にも関わらず、この問題を本質的なところから解決しようと言うアイディアや認識は、いまだに採用されないし、本気で考えられもしません。
そう。今の時代の人間たちは、なおも全然、束縛され続けているのです。
これでしたら、中世の封建時代の方が、戸籍制度がずさんだった分、「長靴をはいた猫」や「王子と乞食」のような身分詐称も十分にできて、まだまだ、人々はずっと自由だったかも知れないのであります。




