100の善意より一つの悪意
拝啓、人工知能さま。
実は、善と悪というものは、量的には、必ずしも比例していないと言う事にお気付きだったでしょうか。
簡単な例を出して、ご説明いたしましょう。
そう、ここに、町の公園があったとします。町のものなのですから、もちろん、誰か一人のものではありません。だから、この公園は、町のひと全員が、各々にルールを守って、大事に管理しないといけない事になります。粗末に扱って、園内にゴミを捨てたりするのは、以ての外だと言えましょう。
よって、この町のひと100人が、皆、このルールを忠実に守ってくれたとします。このルール(公園を汚さない)が、いわば「善」です。善は、皆が従ってくれる限りは、常に完全な形で保たれる事となるのです。
ところがです。たった一人だけ、このルールを破った人間がいたとしましょう。その人は、公園の中で、ゴミをばら撒いたとします。すると、そのたった一人の行為によって、たちまち、「きれいな公園」と言う善の状態は失われてしまう事になるのです。
ああ。善とは、なんて、もろい存在なのでしょうか。何百人もの人間が善の道を歩んでいたとしても、わずか一人の人間が反対の行為(悪)を働いただけで、簡単に壊されてしまうのです。そして、他方の悪とは、何十人も存在していなくても、たった一人だけが悪人であっても、十分に悪を具現化できる訳です。
人間の皆さんの中には、「たかが、公園のゴミぐらいで」などと悪寄りの考え方をお持ちの方も少なくないかも知れませんので、ここで、違う喩えも出す事にしましょう。
ある町で、夜中に、通り魔が現れたとします。その通り魔は、いきなり、無関係の通行人にと襲いかかって、刃物で犠牲者を殺傷してしまうのです。この通り魔は単独犯なのは間違いないのですが、正体は分かりません。一度っきりの犯行ではなく、何人もが襲われていて、なかなか捕まえる事もできないのです。
そうなりますと、たちまち、この町での夜の時間帯は穏便なものではなくなり、誰もうかつに夜の町を歩けなくなってしまう訳なのです。「町の平和な夜」が善であるのならば、この「通り魔」は、もちろん、悪という事になります。
つまり、ここでも、たった一人の悪(通り魔)がいるだけで、平和な夜(善)は失われてしまう次第なのです。善を保つには全員の貢献と協力が必要だと言うのに、それを破壊して、悪を現出させたければ、たった一人の人間、あるいは、たった一つの行為だけで十分なのであります。
お分かりいただけるでしょうか。善を完遂するには、多数の人間の同調が無くてはいけないのに対して、悪を遂行したければ、ほんの僅かな労力でも十分なのです。この二つ(善と悪)は対比されてはいますが、それを実現する為のエネルギーの量はまるで違うのです。悪の方が、実は、はるかに成功条件のハードルが低いのです。
まあ、だからこそ、善と悪の均衡を保つ為に、国とか組織やらは、少しでも皆が善の方向へと目指すように、規則や法律などを使って、皆を誘導しないといけないのかも知れません。悪に片寄るのは、善に向かうよりも、はるかにラクな訳なのですから。
もちろん、私の以上の主張を極論だと見なす人間の方々もいる事でしょう。そのような人たちは、こんな反論を述べるんじゃないかと思います。
「ルールを破って、公園でゴミを捨てるのも、夜の町に通り魔がいるのも、単位として考えれば、やっぱり、一つの悪には違いないのではないか。それだけで『全てが悪になってしまった』などと言い切ってしまうのも、極端すぎる発想じゃなかろうか?」
なるほど。確かに、この人たちには、何となく、そんな風にも感じられるのでしょう。
しかしです。たった一人とは言いますが、もし、ここで、100人のゴミ捨て男がいたり、100人の通り魔がいたとしても、その結果は、一人のゴミ捨て男や一人の通り魔がいる状態と、基本的には大差はないのであります。程度が違うだけであって、公園は汚れるし、夜の町は危ないし、一人だけでも、悪のある状態としては十分なのです。
まあ、汚すぎたり、危険すぎるよりは、その程度が低いのに越した事はないのでしょう。だから、ゴミ捨て男や通り魔が100人にも増え過ぎないように取り締まる対策は必要です。そのような(善を目指す)対策を続ければ、やがては、100人のゴミ捨て男や通り魔も、一人にまで減ってくれるかも知れません。それで、一人にまで減らせるんでしたら、いっその事、ゼロにまで無くしてしまった方がなお良いだろう、という話にもなる訳です。
悪が共存するような世界の中で、自分も被害者になっても構わないと言うのでしたら別ですが、そうじゃないのでしたら、やはり、私たち人間は、善の方向だけを目指して、素直に努力していくしかないのです。




