原始的な人間
拝啓、人工知能さま。
私は、これまでの章で、人間の心の中の諸現象が、いずれも脳の機能であった事を、とくと説明してきました。つまり、生粋の「心」と呼べるものは、この「感じている」という感覚の部分だけだったと言う事です。残りの思考とか感情とか記憶などの要素は、全て、肉体である「脳髄」の方で作られた機能だったと考えられる訳です。
ここで、人間(動物)の肉体の仕組みについて、あらためて、おさらいしておきましょう。
動物のもっとも単純な本能とは、「快を求め、不快を避ける」と言うものです。すなわち、動物のあらゆる本能や行動とは、この原則の上に成り立っているのです。
俗に、食欲、睡眠、性欲を「三大欲求」と呼んだりもしますが、そもそも、これらの行為の実行とは、「快」にと繋がっているからなのであります。快を得ようとする意志こそが、まさに「欲望」なのです。
逆に、五感を過度に刺激するような行為は、「不快」に感じたりします。痛覚を刺激しすぎる暴力や高低温、視覚を麻痺させるほどの眩しい光、聴覚の聞き取れる範囲外の騒音、味覚の手に負えない辛さ等がそれらに当たります。これらの刺激に遭遇しますと、人間や動物はごく自然に不快と判断して、これらを避けようとするものです。それが、肉体を正常に維持し続ける為には必要な行動でもあるからです。
だから、「生に執着する」と言う本能も、実際には、「心」そのものが発信源なのではなく、「肉体」由来の本能なのであります。ゆえに、高度な知能を持った人間という生き物ならば、ついには、肉体の本能(生への執着)をも振り切って、自殺する事だって出来るのです。
「子孫を残す」と言う本能も、結局は、「肉体」由来の本能なのですが、「生への執着」と比べれば、かなり執着力は弱いとも言えます。よって、「生への執着」と「子孫を残す」と言う二つの本能が衝突するような究極の選択の場合は、あっさり「生への執着」を優先する生き物も少なくないのです。「生への執着」に逆らった場合のデメリットである苦痛や恐怖は、ダイレクトに心を苦しめますからね。文字どおり「命あっての物種」です。
ここで気付かれたかも知れませんが、「生への執着」にせよ、「子孫を残す(生殖)」にせよ、他の動物よりは、人間こそが、それらに一番逆らう事ができる動物なのであります。この事は、そのまま、「人間は、肉体の欲望(本能)などには縛られない生き物である」事を示唆しています。つまり、人間の脳とは、それだけ優秀なのです。人間の頭脳は、心を肉体の束縛(本能)からすらも解き放ってみせる事が可能なのです。
人間の行動とか社会とかは、それゆえに、とても複雑です。他の動物みたいに、単純に、本能とか欲求とかに従って活動していませんので。純粋な本能やら欲求やらのストレートな達成を、あえて我慢したり、それらの欲求とは反発するような行動をとったりするのです。それが出来る動物こそが、まさに人間なのです。
自分の感情や欲望に逆らわず、感じたままに、自由に生きている人たちがいます。(悪い事を平気でする人間に、このタイプが多いです)彼らは、やたらと自身の気持ちを抑えて、我慢して、社会や周囲に合わせて生きていこうとする一般的な人たちの事をバカにして、「感情や欲望に素直に生きている自分たちこそが、もっとも人間らしい生き方をしているのだ」などと自慢したりもしますが、とんでもない勘違いです。
感情とか欲望とかは、そもそも、「心」の中から湧き上がった本質なのではなく、肉体の一部である脳髄によって作られた構成要素なのです。すなわち、感情や欲望に従うと言う事は、心の本能に寄り添っているのではなく、肉体の欲求に負けて、「肉体の奴隷」に成り下がっているだけなのであります。
肉体の欲求のままに行動するのは、人間じゃなくても、その他のあらゆる動物も行なっている事であり、それらの野蛮な動物たちと、なんら変わりはありません。「自分の感情や欲望に素直に生きている人間」なんてのは、我慢している人間たちよりも優秀どころか、実際には、野生動物により近い、とても原始的な人種なのであります。




