パストラル
【パストラル:牧歌】
大陸を横断するセント・アルファルド鉄道。長距離、短距離さまざまな列車が走り、トレミー国の交通手段の七割を占めている。
その中でも、国内外に名を馳せている列車。それが寝台列車オリオンだった。
この列車は、国の東・首都コル=ヒドレから、西の端・エリダヌス自治区までを五日間かけて走る。八両編成、一等客室から三等客室まであり、その乗客は国有数の金持ちから一般市民まで多岐に渡る。
二部屋しかない一等客室のチケットは、富裕層しか手が出せなさそうな値段ながらも、発売開始からすぐに売り切れてしまうほど貴重なチケットだった。
*
本日のオリオンは、厳戒態勢だった。
「いやー、快適至極。やはり人気の寝台列車はいいねぇ」
一等室で寛ぐ青年は、ソファにもたれかかってグラスを傾けた。
「おにーさま! もうすぐお花畑をとおるわよ!」
窓際で少女がはしゃいだ声を上げる。
二人は同時に入り口を見やった。
「メルー、テンション低ーい」
二人の声が重なる。閉じたドアの前で、メルは呆れた表情を浮かべていた。
「いや、お二人が高すぎるんですよ……」
メルは手にしたグラスをテーブルの上に置く。
「ステラ様、ミックスジュースです」
ステラはぴょんと窓の傍を離れると、兄のとなりに座ってジュースを飲み出した。
「ありがとう、メル。ねぇおにーさま、ジュノンもいたらたのしかったのにね」
「仕方ないよ。今回は公務だったからね。こうしてメルにお世話頼んでるくらいだし」
二人は隣国ヒッパルコスへ式典に行く途中だ。王族兄妹が国内外に名を響かせるオリオンに乗りたいということで、ちょうど日にちが重なったことから今回の旅が実現した。
ただし他の客にはトップシークレット。オリオンの従業員でもメルとオーリーしか知らないという徹底っぷりだ。
おかげでメルは他の客室の様子が気になって仕方がないのだが、そこは名だたるオリオンの従業員だ。車掌がいなくてもしっかりやっているようで、メルはこうして一等客室に付きっ切りになれている。
王族の利用だ。二つある一等客室は貸し切りだし、車両の入り口には護衛まで付いている。前回を上回るお忍びっぷりだろう。
「まぁでも、私もまたお二人に会いたいと思っていたから良かったですよ。オリオンを楽しんでもらえるならこの上ないことだし」
アエラとステラは顔を見合わせる。そしてまたメルの方を見ると、にこーっと笑顔を浮かべた。二人の天使のような微笑みに、メルの頬は赤くなってしまう。
「あたしもメルとこうして過ごせてうれしい! 今日はずっと一緒よ!」
ステラがメルの腕にぎゅっと抱き付いてきた。
「あー、俺も俺もー」
「おにーさまはダメ! ジュノンにおこられるわよ!」
アエラは目を伏せて肩を竦める。慌てたのはメルだ。
「わっ、私とジュノンはそういう関係じゃありません!」
アエラは一瞬驚いた表情をしたあと、意地の悪そうな笑みを浮かべた。
「そうなの? ジュノンもヘタレだなぁ」
「アエラ王子の方こそどうなんですか! ……って王族の方にこんなことを聞くのは野暮でしたね……」
申し訳なさそうに見上げるメルを、しかしアエラは笑い飛ばして答えた。
「いやー、俺はまったく。ステラ以上に可愛い子が現れたら考えなくもないけどね」
「いやん、おにーさまったら」
ステラは両手で頬を押さえて顔を赤らめた。メルは呆れ顔で二人を見やる。
「時期国王ともあろうお方が、そんなんでいいんですか……」
「いや、父上も呆れ顔さ」
そう言うアエラはまったく意に介してないようだ。この二人の仲の良さは、国王でさえもどうしようもないレベルだ。
「それにしても、お部屋だってひとつでじゅうぶんだったのにねー」
ベッドにぽすんと座りながらステラは言った。
「そうですよ、ステラ様。せっかくステラ様用にお隣の部屋を取っているのに、どうしてアエラ王子の部屋にいるんですか」
「だってー」
「まぁまぁいいじゃないか。護衛の都合上、一両まるまる貸し切りの方が効率良かったんだし」
護衛に支障がなかったら、二人一緒の部屋でも良かったということだろうか。答えを聞くのが怖くてメルは考えなかったことにした。
「ま、まぁとにかく! ステラ様はそろそろお休みになった方がいいんじゃないですか?」
時計は十時を回っていた。八歳のステラはそろそろ寝た方がいいだろう。
「えー!? まだおにーさまとメルとおはなししたーい!」
アエラは優しく妹の頭を撫でる。
「ステラ、まだあと四日も一緒にいられるんだよ。また明日話そ?」
ステラは唇を尖らせたが、アエラにそう言われてしぶしぶ頷いた。
「じゃあメル! あたしが寝るまで本よんで!」
「本、ですか?」
「いつもはおかーさまにしてもらってるの! ねぇおにーさま、それならいいでしょう?」
ステラはメルに申し訳なさそうに目配せした。
「私ならいいですよ。このあと仕事も入っていませんし」
「悪いねメル。ステラ、おやすみ」
そう言いながらアエラはメルに本を手渡した。
「おやすみなさい、おにーさま」
渡す寸前、アエラはそっとメルに囁く。
「ステラが寝たら俺の部屋に来て」
その言葉の意図をはかりかねて見上げるメルに、アエラはただにっこりと笑うばかりであった。
*
ステラを寝かし付けてアエラの部屋に戻ったメルは、ただずっとソファに座って待たされていた。向かいには、眼鏡を掛けてひたすら書類になにかを書いているアエラがいる。
「すまないね、わざわざ来てもらったのに待たせて」
「いえ……」
「休暇も兼ねているのに、こう片付けなきゃいけない書類が多くて困る。まったく、王族なんてなるもんじゃないね」
冗談とも本気ともつかない物言いに、メルは曖昧に笑った。
「よし、終ーわりっと。なにか飲む?」
さらりと言って立ち上がる王子に、メルは慌てた。
「いえっ私がお淹れします!」
相手は王子、自分は車掌。それを抜きにしても客に手を煩わせる訳にはいかない。
しかしアエラはそれを手を振って制する。
「いいんだ、いいんだ。これでもお茶を淹れるのは得意なんだ」
そう言ってアエラは慣れた手つきでハーブティーを淹れていく。
「どうぞ」
メルの前に差し出されたカップからは、ラベンダーの香りがふわりと漂った。
「おいしい……」
「どういたしまして」
アエラはにこりと笑った。
城でもお茶を淹れたりしているのだろうか。変わり者の王子だからそれもありうると思いながら、メルはカップを傾けた。
「それで、私になにかご用ですか?」
「君は、ジュノンのことをどう思っているんだい?」
直球な質問に、危うくメルは紅茶を吹き出すところだった。
「どうって……! だからそれは……」
「君は、エリダヌスの血が入っているだろう?」
その単語を聞かされて、メルの表情は真剣なものに変わった。
オリオンに捨てられて、両親の顔も名前も分からない。ひとつ分かるのはこの目と髪が示す『エリダヌスの血が入っている』ということだけ。
トレミー国にエリダヌス自治区が加えられてからもう十五年経つが、いまだに上の世代ではエリダヌスに対する偏見が多い。
「今でこそ平和を保ってはいるが、またいつ戦争になるかは分からない。そのときに、彼の重荷になってほしくないんだよ」
メルはなにも言うことができない。顔を強張らせるメルを前に、次の瞬間アエラの持つ空気が和らいだ。
「というのは王族としての建前だけど」
目を瞬かせるメルに苦笑しながら、アエラはカップを手に取る。
「曲がりなりにも友人だから、ね」
アエラは紅茶を一口飲んだ。それと共に飲み込んだ言葉があったが、今はそれを言うときではないだろう。
「俺はひとりの男として、友人の恋が叶ってほしいとも思っている」
なにも言うことができないメルを見て、ふわりと微笑んだ。
「もうメル嬢も大事な友人だからね。それぞれが不幸になる道を歩んではほしくない」
メルをいたずらに落ち込ませたい訳ではなかった。二人が茨の道を進まなくてすむよう、アエラは力になりたかったのだ。
「……ありがとう、ございます」
メルはそれしか言うことができなかった。
*
行程は滞りなく進んだ。各地の名産を食し、各地の美しい風景を見て、忙しい王子も羽を伸ばせたと思う。
事件が起きたのは四日目の夜だった。
夕食を終えて、メルがその片付けをしていたときのことだった。夜にはアエラの淹れる紅茶とともに、ステラとカードゲームをするのが日課になっていた。その日も同じように部屋へ向かうところだった。
アエラの部屋をノックするが、返事はない。不思議に思ってステラの部屋のドアをノックする。そこには暗い表情のステラがいた。
「ねぇメル。おにーさま見なかった?」
「え、いないんですか?」
「部屋にもどこにも見当たらないの。護衛のひとたちも出てくるところを見なかったって言うし……。いまみんなに探してもらってるけど、どうしよう……おにーさまになにかあったら……」
まずいことになった。あんななりでも一応王子だ。まさか誘拐――
とメルが顔を青くしたときだった。
「おにーさま、いつも変装して城をぬけだしちゃったりするのよね。あたしも連れていってほしかったわ」
なんでもないことのようかにステラは言った。ぽかんとしたのはメルである。
「え、いつものことなんですか?」
ステラは唇を尖らせて答える。
「そう! お城ならまだいいわ。でも今回はオリオンじゃない? あたしだってぜんぶの車両をゆっくり見てまわりたいわ」
メルは苦笑する。焦った自分が馬鹿みたいだ。
「でもやっぱりなにかあったら心配です。私、探してきますね」
「えー? あたしもいくー!」
「駄目です! ステラ様にまでなにかあったら私は国王陛下に顔向けできません。護衛の方と一緒にいてください」
「あのひとカードゲーム弱いのになぁ……。じゃあ戻ってきたらあたしと遊んでよ? ぜったいよ?」
メルは力強く頷くと、一等客室をあとにした。
*
後部車両は護衛の人たちが見て回っているというから、メルは詰め所に戻ってみることにした。誰かがアエラを見ているかもしれない。メルは詰め所のドアを開けた。
そこにいたのは、机に突っ伏しているウィズだった。
たしか今回は、コル=ヒドレの駅員の間でも噂になっているクレーマーが乗っていたはずだ。本来ならば問題のある客にはメルが当たりたいところだが、今回は王族兄妹の件がある。仕方なく客室係長のウィズに当たってもらっていた。
「ウィズ……大丈夫……?」
メルが恐る恐る声を掛けると、がばっとウィズは体を起こした。
「はあー! あったまに来る!」
ウィズは椅子にどっかりと座り直すと、悪態をついた。他の乗務員たちは苦笑いをしている。
「ウィズ、ごめんね。私が出て行ければいいんだけど……」
できることなら自分が対応したかった。客室係長より車掌の方が箔が付くだろう。
「あー、いいっていいって。今回の一等室の客は上客なんでしょ? すっごい護衛付いてるよね」
ウィズはひらひらと手を振った。力になれないことがもどかしい。
「それに若造が行くより歳いってるやつが出る方が相手は納得するのよ」
「若造って! 私これでも車掌よ!」
メルは頬を膨らませた。そんなことをしたらまた子どもに見られるかもしれない。
「それはまぁ事実だとしても、ウィズ、あんまり調子が良くないでしょ?」
出発のときから思っていた。体調が良くないのかと思ったが、そうでもないらしい。いつもの靴と違うし、心理的なことかもしれない。ウィズは目を瞬かせる。
「違った?」
小首を傾げるメルをぽかんと見ていたウィズは、やがて肩を震わせて笑い出した。
「なんで笑うのよー!? 元気なら仕事して!」
「ごめんごめん。メルは立派な車掌だわ」
笑いすぎて涙目になっているウィズは、目をこすった。そしてメルを見上げる。
「大丈夫、私もオリオンの一員よ」
強気な笑顔を見せて、ウィズは立ち上がった。
他の従業員たちが安堵の表情を浮かべる。
本人は気付いていないようだが、ウィズはオリオンのムードメーカーなのだ。彼女が気合いを入れれば車内が活気付く。悔しいが、こんなところは適わない。
「よし、行きますか!」
気合いを入れなおしたウィズは、客の元へと向かった。メルは乗務員たちの方に向き直る。
「そうだ、誰か背の高い男の人を見なかった?」
「他に特徴ないですか?」
「恐ろしく顔が整ってるわ」
全員が無言でメルを見た。
「な、なに?」
「いや……さっきとあんまり変わってないですよね……」
「だってそれ以外に言い様がないんだもん! 見てないならもういい!」
ひとりが思い出したように言った。
「あ、そういえばさっき、七号車で見慣れない客を見たかも」
「どういうこと?」
「いや、眼鏡掛けた男の人だったんだけど、あんな人乗ってきてなかったような気がして……。俺の記憶違いかもしれないけど」
メルは初日の晩のことを思い返していた。書類を片付けていたとき、アエラは眼鏡を掛けていた気がする。
「そう、ありがとね。ちょっと行ってみる!」
気をつけてなー、という声を背中に聞いて、メルは詰め所をあとにした。
*
七号車に来てみたが、アエラの姿はなかった。入れ違いになったのだろうか。念のため八号車まで行ってみたが見当たらない。
「もー……どこ行っちゃったのよ……」
そして五両目まで戻ったときだった。金色の髪が視界を掠めた。メルは慌てて駆け寄る。
「王子! どこに行ってたんですか! 心配したんですよ!?」
振り返ったアエラは、どことなく嬉しそうにしていた。
「ごめんごめん。ちょっと人助けに」
「は?」
この王子は時折訳の分からないことを言う。疑問符を浮かべるメルを横目に、アエラは満足そうな顔をしていた。
「ね、オリオンの客室係長って何歳なの?」
「客室係長ですか? 二十五歳ですけど……?」
アエラは少し驚いた顔をした。確かに長というには少々若いだろう。しかし客室係の若い子たちは特に辞めていく者も多い。ウィズは充分な経験を積んでいるのだ。
「もしかして、なにか粗相がありました……?」
「いやいや。メル嬢のところは、本当に優秀な人が揃っているな」
アエラとウィズの間になにがあったかは分からない。けれどもオリオンはメルの自慢だ。褒められて嬉しくならない訳がない。
「ありがとうございます!」
後ろから「おにーさまー!」と駆けてくる声がした。
これはウィズにちょっと問い詰めなければな、と思いながらメルはアエラと共に、小さな天使を迎えた。