貴婦人の乗馬
大陸を横断するセント・アルファルド鉄道。長距離、短距離さまざまな列車が走り、トレミー国の交通手段の七割を占めている。
その中でも群を抜いて名を馳せている豪華列車。それが寝台列車オリオンだった。この列車は国の端から端までを走る唯一の寝台列車だ。オリオンから見える風景はトレミー国の美しい町並みを通り抜けていく。
この列車の車掌は、まだ若干十五歳の少女だった。
*
メルは目の前に広がる色とりどりの風景に、言葉を失った。
感動しているのではない。呆れているのだ。
「ジュノン……。これはいったいなんのマネかしら?」
両手いっぱいに溢れんばかりの花束を抱えたジュノンは、今日も幾人もの女の子たちを落としてきたであろう笑みを浮かべている。
「この前カフェでお茶をしたときに言っていただろう? オリオンから見える花畑が好きだと。それには適わないかもしれないけど、この街中の花を集めてきたよ」
メルは頭を抱えた。無賃乗車という名の犯罪行為がなくなったと思ったらこれだ。メルにはジュノンの考えていることがさっぱり分からない。
「ジュノン……。いきなりこんなに持ってこられても困るっていうか……」
「いらない? なら捨てるしかないか……」
ジュノンは溜め息をついて至極残念そうな顔をする。
「折角だからいただきます! 花の命を粗末にするようなことしないで!」
草花とはいえ一つの命。メルには無下にはできなかった。
にこーっと笑ったジュノンを見て、またしてやられたとは思ったが。
「……食堂車に飾らせてもらうわ。ありがとね」
「うん。旅の無事を祈るよ」
そしてオリオンは首都コル=ヒドレを出発した。
*
メルは眉間に皺を寄せて前方を見ていた。それをオーリーは黙って見つめる。
「……どうした」
短く呟かれた問い掛けに、メルはくるりと振り返る。
「この先、綺麗な花畑があるでしょ?」
オーリーはそれには返事をせず、黙々と石炭を火の中にかき込む。赤ん坊の頃からの付き合いだ。このくらいで無視されたなんて考えはしない。これがオーリーとのコミュニケーションだ。
メルは気にせず続けた。
「食堂車に飾ってある花瓶、あれあの花畑をイメージしたものらしいのよ。冷静に考えたら花束が花畑になるわけないんだけど、なんかその考えが面白いなぁって思っちゃって」
オーリーはシャベルを立て、背筋を伸ばした。もういい歳だが、オーリーは足腰がしっかりしている。
「憲兵の小僧か」
メルは目を見張った。
「やだオーリー、知ってたの?」
オーリーは相変わらずむすっとした表情をしている。
「ウィズがペチャクチャと話していった。……わしはあいつは認めんぞ」
そう言ってまた石炭をかき込み出す。
「もうっオーリーまで! そんなんじゃないってば!」
育ての父までこれだ。外堀を埋められていっているようで、メルは慌てて機関室を飛び出した。
*
「あっメル!」
給仕室に差し掛かったところで、メルは後ろから声を掛けられた。振り返ると、そこにいたのは給仕長のブレンダだった。ふっくらとした顔には満面の笑みが浮かべられている。もっとも、ブレンダが怒ったところなど、メルは生まれてこの方見たことがなかったが。
「お花、ありがとうね。お客さんに好評らしいよ」
その言葉にメルは複雑な気分になる。花に罪はないが、ジュノンの笑顔とオーリーの仏頂面が脳裏に浮かんで何とも言えなくなった。
それを察したのだろう。ブレンダは小首を傾げた。
「何かあったの?」
さすがオリオンの肝っ玉母さん・ブレンダだ。乗組員の些細な変化にも敏感だ。メルはしばらく思案を続けたが、やがて口を開いた。
「あの花ね、ジュノンがくれたものなの。それでその……、みんながジュノンが私にその、想いを寄せてる、みたいなことを言うから……」
そう言ってメルはもじもじと手をいじる。ブレンダはそんなメルを、目をぱちぱちとさせて見つめた。そしてふっと笑う。
「なーるほどね! それでどうしたらいいか分からないってわけかい。いやぁ初々しいねぇ。仕事のできる車掌サンも、色恋沙汰にはひよっこだったか!」
ブレンダはメルの背中をばしばし叩きながら言った。メルはその衝撃でむせてけほけほと咳き込んだ。
「メルはどうしたいの?」
笑顔で問われてメルは押し黙る。
「……私は、ジュノンが無賃乗車をやめてくれたのは嬉しい」
「未遂だったけどね。たぶん本気じゃあなかっただろうし」
メルはこくりと頷く。それはメルも思っていたことだった。
「私はジュノンがどんな人なのかを知りたいの。色恋含めてじゃなくて……」
そう言って俯いてしまったメルの頭に、優しい手のひらが降ってきた。見上げるとブレンダが優しく頭を撫でている。
「そうだね、まずはお互いを知ることから始めてみようか」
お母さんがいたらこんな感じだったかもしれない、なんて思いながらメルはそのまま撫でられ続けていた。
*
ブレンダと別れてメルは食堂車へ向かった。
と、出てきた人物とぶつかりそうになる。
「あっ!」
「申し訳ございません! お怪我はございませんか!?」
慌てて手を差し出すと、メルの腕の中に老婦人が収まった。老婦人は照れくさそうな顔を上げた。
「ごめんなさいね。久々の旅行でちょっとはしゃぎ過ぎちゃったわ。車掌さんは怪我ないかしら?」
大事な客に怪我がなかったことに安堵しながら、メルは頷いた。
「エッセ! なにをやっているんだ」
後ろから老婦人の旦那であろう男性が声を掛けてきた。エッセと呼ばれた老婦人は笑顔で振り返った。
「レオン、ごめんなさいね。でも大丈夫よ。怪我なんてしていないわ」
エッセはくるりと振り返る。
「車掌さん、こちら息子のレオン。親子二人で旅しているのよ」
え、とメルは二人を見つめる。二人は同じくらいの年代に見えた。レオンは困ったような顔で笑っていた。
「うふふ、親孝行な子でしょう? 私の自慢の息子なのよ」
メルは気を取り直して笑顔を浮かべた。
「えぇ、素敵な息子さんですね」
エッセはニコニコと微笑んでいた。
*
「車掌さん」
ディナーの時間も終わり、車掌室に戻ろうとしたときだった。メルは後ろから声を掛けられた。
振り返るとそこにいたのは、昼間の老婦人の息子だった。
「あぁ! レオン様。お食事はいかがでしたか? お口に合いました?」
「えぇ、とてもおいしかったですよ。さすがオリオンだ」
ありがとうございます、とメルは一礼した。するとレオンは困ったような表情を浮かべる。
「あの……なにか気になる点でもございましたでしょうか……?」
レオンは慌てて首を振った。
「いえいえこの列車のことではなく! ……妻のことです」
メルは思い当たる節があった。
「やはり……ご夫婦なんですか……?」
レオンは静かに頷いた。
「仰るとおり、私たちは夫婦です。妻は私のことを自分の息子だと思っていますが」
二人は通路へ移動した。そこに置かれたベンチに掛けて、事情を聞くことにしたのだ。
「どうして……そんな……」
「私たちの息子はね、先の戦争の折、軍人をしておりました。私もそうでしたが後方支援だったもので。……ひどいものでした。エリダヌスは小国ですが、軍事力には優れていた。大国と言われるトレミー国をもってしても状況は劣勢でした。その最中で息子は死にました。名誉の戦死です。だが妻はそれを受け入れられなかった」
レオンは唇を噛んだ。メルはそれをただ見ていることしかできなかった。
「押されていた我が国ですが、あの戦争には勝利しました。久方振りに家に帰った私を出迎えてくれたのは、『おかえりなさい、私の可愛い息子』という妻の言葉でした。……私はなにも言うことができませんでした」
メルは戦争を知らない。物心ついたときにはオリオンで暖かい大人たちに囲まれていた。
この平和はそんな大人たちが築き上げたものだ。
「以来、私は『母』と暮らしています」
「レオン様……!」
メルはもう耐えることができなかった。零れる涙を隠すように、深く俯いた。
「若い頃……戦争が始まる前ですね。二人で旅行に行ったんです。花が咲き誇る草原を、二人で馬に乗って駆け抜けた。今回旅に出たのはその風景をもう一度見たかったからなんです。妻が私のことを思い出してくれればいい、なんて気持ちもありますが……。でもあの風景を見て妻が笑顔になるのなら、私はもうそれだけで十分かもしれません」
メルはひとり車掌室へ向かっていた。思い出すのはレオンの顔である。
忘れられてしまうというのはどんな気分なんだろう。
オーリーが、ブレンダが、ウィズが、自分のことを忘れてしまったらと思うと、ぞっとした。メルにとってこの列車が全てだ。他の世界を知らない。この場所にしか家族と呼べる人がいなかった。それが失われてしまったら――。
「メル? まだ起きてたのか?」
振り返るとそこにはオーリーがいた。その顔を見てメルはほっと胸を撫で下ろす。
「オーリーにお願いがあるの。あのね……」
メルの頼みに、オーリーは眉根を寄せた。
*
翌日、朝の食堂車にはレオン・エッセ夫妻の顔があった。二人とも楽しそうに食事をしている。
メルは車内放送のスイッチに切り替えた。
「皆様にお知らせいたします。ただ今よりオリオンは低速走行いたします。進行方向右手をご覧ください。アルゴの花畑はこの時期しか見られないもので、この地にしか咲かない珍しいものばかりです。美しい風景をぜひご賞味ください」
そうしてスイッチを切った。ふうっと息をついて振り返る。
「これで良かったのか?」
速度を調整していたオーリーはいつもの仏頂面で聞いた。昨日、メルから頼まれたときは多少渋った。この花畑で速度を落とすなど、前例がない。ダイヤの乱れにも繋がる。
だが最終的にはオーリーも納得した。次の駅で調整する、というメルの言葉に折れた。
メルは振り返ってにっこりと笑う。
「えぇ。……見てくれるといいんだけど」
メルは窓の外に目をやった。
その頃。一号車の一室では窓の外を見つめる男女の姿があった。
「見て、エッセ。見事な花畑だ」
レオンはエッセを窓際へ促した。
「うわぁ……」
立ち上がったエッセはレオンの隣に並ぶ。そこに広がる風景に息を呑んだ。
青い空を背景に、一面の花畑が広がる。薄紅や薄紫のコスモスに、朱色が鮮やかなマリーゴールド、赤のコントラストが目を引くダリア、可憐に咲き綻ぶブルーサルビア。
この世の草花を全てここに集めたかのような風景が、そこにはあった。
「……見事だね」
その景色に圧倒されてレオンはぽつりと呟く。記憶の中にあったよりも鮮やかな景色だった。
「エッセ?」
何も言わないエッセを不思議に思って、レオンはその顔を覗きこんだ。
「エッセ!?」
エッセは窓の外を見つめたまま、ただ涙を流していた。
レオンはあたふたとエッセの背中をさする。
「どうしたんだ、エッセ? 気分でも悪くなったか?」
「ちが……違うの……」
エッセは涙を拭った。
「私、あの風景を見たことがあるわ……。あの花畑の中を、馬で駆け抜けていく二人が見えたの……。レオン、あなたはずっとここにいてくれたのね」
「エッセ……」
エッセは潤んだ瞳でレオンを見上げた。
「レオン、私の愛しい人」
レオンはエッセをきつく抱き締めた。
花畑の中を、馬に乗った二人が駆け抜けた。
*
「じゃあ、そのご夫婦にあの花あげたんだ」
首都・コル=ヒドレ駅のカフェ。ジュノンはコーヒーカップを置きながらそう言った。
「えぇ、旅行の思い出になればと思って。喜んでくださったわ」
メルはあの老夫婦の笑顔を思い出して、小さく微笑んだ。手を振る二人は、長年連れ添ったいい夫婦だった。
「というか」
メルはカップをソーサーに置いて、瞳を閉じた。低い呟きにジュノンは小首を傾げる。
「どうして私はあなたとお茶なんてしているのかしら」
昼下がりのカフェはそこそこの賑わいを見せている。友人同士で来ている人、恋人たちの逢瀬、奥様方の歓談。その中にメルとジュノンの姿があった。
あぁ、とジュノンは合点がいった顔をする。
「それはウィズが洋服の仕立ての時間だ、って行っちゃったからじゃないかな?」
「どうも嵌められた気がするんだけど……」
店に来たときは三人だった。お茶を飲んで他愛もない話をしていたのだが、少ししたらウィズは席を立ってしまったのだ。メルが口を挟む隙すらなかった。
「あはは! 気のせい、気のせい」
ジュノンは屈託のない笑みを浮かべた。メルは不満をダージリンと一緒に飲み込む。
「その花畑で考えてたんだけど」
そう言ってジュノンはポケットをあさる。中から小さな箱を取り出した。
コトリとメルの前に置く。
「開けて」
これはどう見てもジュエリーケースだろう。メルはしばし逡巡して、箱を手に取った。
蓋を開けたそこにあったのは、琥珀のネックレスだった。
透きとおるアメ色の宝石の奥には、流れるような花の彫刻がされている。台座に透かし彫りされているのだ。小振りのその琥珀は、年代を感じさせるが、若者にも似合いそうなデザインだった。
「きれい……」
メルは手に取って光にかざした。隙間から零れる光が、琥珀に反射してキラキラと輝く。
「君にあげるよ」
ばっとメルはジュノンに視線を戻した。彼は優しく微笑んでいる。
「こんな高そうなもの、もらえない……!」
メルはネックレスを付き返した。ジュノンは微笑んだまま、その手にそっと自分の手を添える。
「僕はその花畑を見たことがないけど、この前の花束ではとても現せないように素晴らしいものなんだろう? 想像するしかないけど、その風景を残しておきたいと思う。このネックレスを見てメルが思い出すなら、値段なんて関係ない」
有無を言わせぬその表情に、メルは手を引っ込めるしかなかった。「貸して」とジュノンは席を立つ。メルの後ろに周って、すっと腕を回す。
メルの胸元にアメ色が躍る。
また席に着いたジュノンは、満足そうに笑った。
「うん、よく似合う」
自分でも頬が染まるのがメルは分かった。それを見られたくなくて、メルはふいっと顔を反らず。小さく呟いた「ありがとう」はちゃんとジュノンの耳に届いたようで、ジュノンはますます笑みを深めた。
「そういえば、今度オリオンに乗ることになったよ」
「え、また無賃乗車?」
話題を変えてくれたジュノンに感謝しながらも、メルはそんな切り返しをしてしまった。
「違うよ! 仕事でエリダヌスに行くことになったんだ」
エリダヌス自治区。それは十五年前にトレミー国の一都市となった地区だ。ジュノンの仕事と言うと憲兵か、とメルは記憶の底から呼び起こした。
「というかあなた、ちゃんと仕事してたの」
「ひっどいなー。ちゃんと憲兵としてこの町の治安を守ってますー」
ジュノンは少し怒ったような声を上げる。しかし本気で怒っているわけではないのだろう。その証拠にすぐにまた元の笑顔に戻った。
「もうすぐエリダヌスの聖誕祭だろ? その警備に行くんだ」
戦争を経て、トレミー国の自治区となったエリダヌス。住民の多数を占めるアケルナル教の聖誕祭が月末に迫っていた。
「五日間、よろしくね」
柔らかく笑うジュノンに、メルは複雑な表情を浮かべるしかなかった。