煙草
「ふあひゃ! ……っとぉ!」
謎の声を上げて、アタシはバスの揺れに盛大によろける。
とっさに両手を上げようとするが、既に荷物でいっぱいの両手は上がらない。反射的にふんばろうとした右足が、床を離れる。荷物と自分自身の重みに耐え切れずに、そのまま後ろへ倒れ掛かる。「走馬灯すら浮かばないの!?」と考える間もあればこそ。左足までが床を滑る。瞬間的に体が宙を浮き、アタシは強く眼を瞑った。
相馬亜美
職業:フリーター。享年二十二歳。
初対面で一度も正確に名前を呼ばれた事のないまま死す。
あぁ、何て可哀想なアタシ。
しかし、待てど暮らせど後頭部を背もたれの角にぶつける事も、背中から床にたたきつけられる事もない。
おやぁ? と眼を開けると、見知らぬ男の顔が目前にあった。
「大丈夫ですか?」
腰にくるバリトン。彫りの深い顔立ち。びしりと着込んだ高そうなスーツ。手触りの良いコート、首から垂れる白いマフラー。ふわりと香る苦い香りは多分煙草。何でこんなしみったれたバスに乗ってるんだか全然理解できない、死ヌ程格好良い男の人だった。
半ブリッジ状態の上ガニ股気味のポーズのまま、アタシは思った。
……さっき、もっと可憐な悲鳴を上げておけば良かった。
「だ、大丈夫です!」
ホラー映画もびっくりの速さで海老反りから立ち直り、男の人に向き直る。
「ありがとうございました!」
行儀良く頭を下げようとしたが、重い荷物と、バスの揺れに負けず踏ん張る足のせいで、今にも「押忍!」とか叫びそうなポーズだ。
格好悪い。
恥ずかしくて顔が上げられなかった。
「大丈夫? 荷物重そうだけど……」
「いえ! 全然大丈夫です! アタシこう見えて力持ちで……!!」
ああああああ。何を話してる自分! 落ち着け! 可愛く可憐な様子で迫るんだ!! 力技で行け!!
もはや考えている事が支離滅裂な事すら、この時のアタシにはわからなかった。端的に言って、頭に血が上っていたのだ。
「でも、危ないから、僕が少し持つよ」
彼はにっこり笑って言った。
……「僕」! 「僕」!! 二十歳過ぎた(多分)男が「僕」!!!
ツボだった。
マズイ。ヤバイ。どーしよう。助けて。
見ず知らずの男(格好良い)に荷物を持ってもらい、微笑を顔面に張り付かせながらアタシは思った。
――惚れるかも。
後から考えれば、厳密には"惚れた"だ。
確かに惚れっぽい自覚はあったが、よもやバイトに向かう先のバスの中で運命の相手に出会おうとは!
「ありがとうございます」
もう一度お礼を述べて、頭を下げる。相手の手が目に入った。
――左手の薬指に銀の指輪。
「……あ」
「? どうかしたの?」
流石にいきなり「結婚してるんですか?」とは聞けずにアタシは慌ててごまかす。
「え、えっと……煙草お吸いになるんですか?」
「ごめん……臭いかな? 自分では解らなくて……妻にもいつも注意されるんだけど」
質問の形は違っても、結果は同じ。予期せぬ形で回答をもらう。
「いいえ、煙草を吸う方好きですよ」
微笑む。無理矢理、微笑む。実は煙草なんてケムイだけで大ッ嫌いだったけど、彼の吸う煙草なら許せると思った。
ぷしぅ、とマヌケな音を立ててバスの扉が開く。見れば降りるバス停だった。
彼から荷物を受け取って、もう一度お礼を言う。にこにこと手を振る彼に、荷物のせいで振り返す手もなく、アタシはバスが見えなくなるまで見送った。
*
それからトボトボとバイト先の保育園へと向かう。アタシのバイト先は伯母の経営する保育園。仕事はただの雑用。今日は少し早めのクリスマスの準備のために、こんな大荷物だったのだ。
保育園につくと、アタシは伯母を探して園長室に向かった。クリスマスの準備品諸々を、倉庫に入れる許可をもらわなくてはいけないからだ。
園長室の扉をノックして開けると、もあ、と煙が漂ってきた。
「……っ」
ケムい。というか眼に染みる。
「伯母さん換気してよ換気!!」
うめいて窓を大きく開け放つ。
コレだから愛煙家は嫌いだ。
紫煙を全て部屋から追い出す。伯母は席を外しているようで、ちょうど居なかった。
保育園という特殊な職場の関係上、煙草を吸える場所は限られる。
そのひとつが園長室だった。だから仕方がないとはいえ、ここはいつも煙たい。
「も〜〜! どこ行っちゃったのかしら」
言いつつもその匂いをどこかで嗅いだ気がして、アタシはこめかみをぐりぐり押した。何かを思い出す時、そうすると思い出しやすいような気がするのだ。
伯母の机に放置された煙草の箱。パッケージにはマルボロ、と書かれている。煙草嫌いのアタシでも知っている名前。
不意に、アタシはこの匂いをどこで嗅いだか思い出す。
気付いたら煙草の箱を手に取っていた。
――あの男の匂いだ。
微かにコートから漂った苦い香り。
頬が紅潮するのを感じる。同時に、あんなに嫌いだった匂いなのに現金だなぁ、と思う。
にまにまと波打つ口元を押さえられずにいると、突然、予告なく扉が開いた。びくっと震えてとっさに煙草の箱を机の上に放り出した。
入ってきたのは伯母さんだった。
「あにやってンの?」
胡乱気に聞く伯母に、アタシは首をぶんぶん振る。
「なんでもない!」
「んーまぁなんでも良いけど。てか窓開けないでよォ寒い」
「それは伯母さんが煙草吸いすぎるからでしょ?」
言いながら、アタシは仕方なく窓を閉める。
何故か伯母さんがひょい、と片眉を上げた。
「ところで、伯母さんの煙草……マルボロだっけ」
「そーよ」
言う伯母さんの眉毛が再び跳ね上がる。
「……何?」
伯母さんの奇妙な表情にアタシは尋ねた。
「んー。亜美があたしの煙草の銘柄知ってたり、興味持ったり、換気終わってないのに窓閉めるの珍しいと思って」
「そぉ!?」
アタシは慌てて室内を見回す。全く気付かなかったが、確かにまだ少し煙たい。
「何だ。煙草に興味がでたか?」
「そんなんじゃないってば!」
アタシは即座に否定するが――速度が速すぎたらしい。伯母さんがにまにまと笑った。
「彼氏が愛煙家だったとか?」
「違うってば!!」
「そーかそーか。亜美の彼氏がねぇ。興味あるなら持ってっていいよ。あと数本だし」
アタシの力いっぱいの否定を歯牙にもかけず、伯母さんは、アタシに煙草の箱を放って遣す。とっさに受け取ると、伯母さんに返すのが惜しく思った。
アタシは、伯母さんにクリスマスの準備品についての許可を取り、文字通り逃げ出すように園長室を後にしたのだった……。
*
家に帰って、自室に入ったアタシは窓のそばにへたり込んだ。
何だかどっと疲れが出た気がする。
そっとコートに手を入れれば、伯母さんに押し付けられた煙草の箱。中には、伯母さんの言ったとおり、まだ二、三本の煙草が入っていた。
じーっと見つめ、彼を思い出す。名前も住んでいる所もわからない、しかも既婚者の彼。煙草はマルボロの彼。
アタシはライターを探して部屋を探るが、もちろん持っているはずもない。仏壇からマッチをくすね、煙草に火をつけた。
それだけできつく煙の匂いがする。
アタシは煙草の端を口にくわえて、ちょっとだけ吸い込んだ。
「……っぶ! げふっ……げほえほげほっ……ぐげふっげほへほげほっ!」
盛大にむせる。
涙が出て、景色がにじんだ。
「不味いよコレ」
呟いて、立ち上る煙の香りだけを吸い込む。
また、同じ時間のバスに乗ってみようと思った。
――今度は大荷物じゃない時に。