表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
6/8

 結婚生活14年と10ヶ月。水晶婚式を目前にして、妻はいなくなった。

 残されたのは10歳の娘と6歳になったばかりの息子。そして不甲斐ない私。


    *


 見合いではなく、恋愛結婚だった。エレベーターガールだった彼女。そのデパートのおもちゃ売り場で働いていた私。


 休憩の時、時々話すようになり、帰りに一緒に帰ることも多くなった。彼女のアパートは、私の家の通り道にあり、よく一緒に帰ったものだ。

 彼女の25歳の誕生日。私は彼女に結婚を申し込んだ。彼女は泣きながら頷いてくれた。しばらく子どもはできなかったけれど、私は幸せだった。


 初めての子どもは、彼女が欲しいと言っていた女の子。名前は、彼女の名前の「深鈴ミスズ」から一字取って、「鈴花スズカ」にした。

 ふたり目は男の子。彼女は「貴方の名前から取りましょう」と言って、「ハジメ」から取り、「朔哉サクヤ」と言う名前にした。


 私たちは――少なくとも私は幸福だと感じていた。


    *


 その妻が、失踪した。

 ある朝起きると、書置きを残し、妻はいなくなっていた。


 妻は天涯孤独の人で、頼るべき両親はいない。私は妻の交友関係も把握しておらず、ただおろおろとするばかりだった。

 見かねたのか、私の母が子どもを引き取る、と申し出てくれた。まだ家や車のローンを抱えたままの私には、ありがたい申し出だった。


 妻は消えた。


 妻の残した書置きを、私は見る事ができなかった。

 どんな離別の言葉が書き添えられているのかと思うと、いたたまれなかった。


 妻は不幸せだと思っていたのだろうか。

 そうだったに違いない。

 家で、ただ子どもの世話と家事に追われる毎日。日々それを繰り返し、それ以外の事もできずに。たまの贅沢はと言えば子どもの誕生日などの祝い事だけ。服や鞄を買ってくれる事もない夫。


 そんな生活にうんざりしたのだろう。

 そんな生活が嫌だったのだろう。


 仕事に追われ、家のことは後回しにしてきた。

 それを妻は理解してくれていると思いこんでいた。


 後で。

 また今度。

 そう思い、考え、飲み込み、すり潰してきた、妻への言葉や気持ちは、摩耗してしまった。

 かつては確かにこの胸の中にあったそのカケラも、今は小さすぎて見つけることができない。


 それに妻は気づいたのだろうか。

 それに、妻は嫌気がさしたのだろうか。


 書置きをあければ解るかもしれない答えを、私は引き伸ばした。

 考えないように、考えないように心がけ、がむしゃらに働いた。


 妻が私の元を去ってから、三ヶ月が経った。

 母は、仕事に打ち込む私の様子を快く思っていないようで、何かにつけては電話をしてよこした。その日も、母は鈴花と朔哉を連れて、家に来た。


 鈴花は、朧気ながら、母のいない理由と、自分たちが祖母の元へと送られた理由を察しているようだった。

 朔哉は幼すぎてよく理解できないのだろう。久しぶりに帰った自分の家に、喜んで飛び回り、私に尋ねた。


「パパ。ママは?」

「ママは、遠いところにお出かけしてるんだ」

 苦し紛れに私はそう言う。


「どこにいるの?」

「遠いところだよ」

 居場所なんて知らない。こっちが教えてほしいくらいだ。


 朔哉は不満そうだった。


「そうだ、朔哉。お星さまを見ようか」

 私は、そう口走った。


 そういえば、この所、趣味の天体観測もしていなかった。


    *


 いつの間にか埃をかぶっていた天体望遠鏡を引っ張り出し、庭先に設置する。仰いだ空に、一番見つけやすいオリオン座を見つけて、そんな事すらすっかり忘れていたのを思い出した。

 朔哉は天体観測で機嫌を直したらしく、望遠鏡を覗き込んでは大騒ぎをしていた。


 私も、妻がいたころそうしていたように、星座や星団の場所、形、謂れなど知る限りのことをゆっくりと話す。

 もう何度も話していると思うのに、子どもたちは飽きない。

 鈴花も朔哉も、瞳を輝かせて聞き入っていた。


 そういえば、と思う。

 私はこんな瞳の子どもたちや、妻を愛していた。

 妻がこんな瞳をしなくなったのはいつからだったろうか。


    *


 その晩、子どもたちを寝かしつけ、母と別れて寝室に入ると、私は妻の残した書置きの封筒を切った。


 逆さにすると、真っ先に銀の指輪が転がり落ちてくる。

 結婚指輪だった。


 中には折りたたまれた離婚届。妻の名前と、印鑑が押されている。

 手紙の類はなかった。


 妻の怨嗟の声すら想像していた私は、逆に拍子抜けしてがくりと肩を落とす。

 妻は、この家にも私にも、何ひとつの感情も残していかなかった。

 この家に彼女が置いていったのは、しがらみの全てだ。


 結婚指輪。

 結婚という事実。

 夫。

 子供。


 妻はその全てを捨てて行った。

 理由すらも告げずに。


 彼女は「家」という閉じた箱の中で過ごしたくなかったのか。

 それで、箱の中に全てを捨てていったのか。


 「家」に彼女を捕らえていた私を。

 「家」に捕らわれている私を。


 何故、一言も相談してくれなかったのか。

 何故、一言すら置いて行ってくれなかったのか。


 もう遅いのだろうか。

 彼女はいなくなってしまった。

 未練がましく、言葉を交わしたいと思っている自分は愚かなのだろうか。


 妻がいなくなってから初めて、私は声を殺して泣いた。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ