家
結婚生活14年と10ヶ月。水晶婚式を目前にして、妻はいなくなった。
残されたのは10歳の娘と6歳になったばかりの息子。そして不甲斐ない私。
*
見合いではなく、恋愛結婚だった。エレベーターガールだった彼女。そのデパートのおもちゃ売り場で働いていた私。
休憩の時、時々話すようになり、帰りに一緒に帰ることも多くなった。彼女のアパートは、私の家の通り道にあり、よく一緒に帰ったものだ。
彼女の25歳の誕生日。私は彼女に結婚を申し込んだ。彼女は泣きながら頷いてくれた。しばらく子どもはできなかったけれど、私は幸せだった。
初めての子どもは、彼女が欲しいと言っていた女の子。名前は、彼女の名前の「深鈴」から一字取って、「鈴花」にした。
ふたり目は男の子。彼女は「貴方の名前から取りましょう」と言って、「朔」から取り、「朔哉」と言う名前にした。
私たちは――少なくとも私は幸福だと感じていた。
*
その妻が、失踪した。
ある朝起きると、書置きを残し、妻はいなくなっていた。
妻は天涯孤独の人で、頼るべき両親はいない。私は妻の交友関係も把握しておらず、ただおろおろとするばかりだった。
見かねたのか、私の母が子どもを引き取る、と申し出てくれた。まだ家や車のローンを抱えたままの私には、ありがたい申し出だった。
妻は消えた。
妻の残した書置きを、私は見る事ができなかった。
どんな離別の言葉が書き添えられているのかと思うと、いたたまれなかった。
妻は不幸せだと思っていたのだろうか。
そうだったに違いない。
家で、ただ子どもの世話と家事に追われる毎日。日々それを繰り返し、それ以外の事もできずに。たまの贅沢はと言えば子どもの誕生日などの祝い事だけ。服や鞄を買ってくれる事もない夫。
そんな生活にうんざりしたのだろう。
そんな生活が嫌だったのだろう。
仕事に追われ、家のことは後回しにしてきた。
それを妻は理解してくれていると思いこんでいた。
後で。
また今度。
そう思い、考え、飲み込み、すり潰してきた、妻への言葉や気持ちは、摩耗してしまった。
かつては確かにこの胸の中にあったそのカケラも、今は小さすぎて見つけることができない。
それに妻は気づいたのだろうか。
それに、妻は嫌気がさしたのだろうか。
書置きをあければ解るかもしれない答えを、私は引き伸ばした。
考えないように、考えないように心がけ、がむしゃらに働いた。
妻が私の元を去ってから、三ヶ月が経った。
母は、仕事に打ち込む私の様子を快く思っていないようで、何かにつけては電話をしてよこした。その日も、母は鈴花と朔哉を連れて、家に来た。
鈴花は、朧気ながら、母のいない理由と、自分たちが祖母の元へと送られた理由を察しているようだった。
朔哉は幼すぎてよく理解できないのだろう。久しぶりに帰った自分の家に、喜んで飛び回り、私に尋ねた。
「パパ。ママは?」
「ママは、遠いところにお出かけしてるんだ」
苦し紛れに私はそう言う。
「どこにいるの?」
「遠いところだよ」
居場所なんて知らない。こっちが教えてほしいくらいだ。
朔哉は不満そうだった。
「そうだ、朔哉。お星さまを見ようか」
私は、そう口走った。
そういえば、この所、趣味の天体観測もしていなかった。
*
いつの間にか埃をかぶっていた天体望遠鏡を引っ張り出し、庭先に設置する。仰いだ空に、一番見つけやすいオリオン座を見つけて、そんな事すらすっかり忘れていたのを思い出した。
朔哉は天体観測で機嫌を直したらしく、望遠鏡を覗き込んでは大騒ぎをしていた。
私も、妻がいたころそうしていたように、星座や星団の場所、形、謂れなど知る限りのことをゆっくりと話す。
もう何度も話していると思うのに、子どもたちは飽きない。
鈴花も朔哉も、瞳を輝かせて聞き入っていた。
そういえば、と思う。
私はこんな瞳の子どもたちや、妻を愛していた。
妻がこんな瞳をしなくなったのはいつからだったろうか。
*
その晩、子どもたちを寝かしつけ、母と別れて寝室に入ると、私は妻の残した書置きの封筒を切った。
逆さにすると、真っ先に銀の指輪が転がり落ちてくる。
結婚指輪だった。
中には折りたたまれた離婚届。妻の名前と、印鑑が押されている。
手紙の類はなかった。
妻の怨嗟の声すら想像していた私は、逆に拍子抜けしてがくりと肩を落とす。
妻は、この家にも私にも、何ひとつの感情も残していかなかった。
この家に彼女が置いていったのは、しがらみの全てだ。
結婚指輪。
結婚という事実。
夫。
子供。
妻はその全てを捨てて行った。
理由すらも告げずに。
彼女は「家」という閉じた箱の中で過ごしたくなかったのか。
それで、箱の中に全てを捨てていったのか。
「家」に彼女を捕らえていた私を。
「家」に捕らわれている私を。
何故、一言も相談してくれなかったのか。
何故、一言すら置いて行ってくれなかったのか。
もう遅いのだろうか。
彼女はいなくなってしまった。
未練がましく、言葉を交わしたいと思っている自分は愚かなのだろうか。
妻がいなくなってから初めて、私は声を殺して泣いた。