雨
三ヶ月前に付き合い始めた彼と別れたのは、久しぶりに晴れた六月のある日。
メールと電話は頻繁にしてたけど、お互い何かと忙しく、なかなか会えなかった。何とか予定を合わせて、久しぶりにデートの約束を取り付けた日曜日。
先週買ったばかりのワンピースに、彼に褒めてもらったお気に入りのミュール。誕生日に、と買ってくれた鞄を持って、あたしは待ち合わせ場所に行った。
あたしは、彼もデートを楽しみにしていると思ってた。
けど待ち合わせに現れた彼は、見たことのない女の子を連れていた。
「悪ィけど、そーゆーコトだから」
それってどーゆーコト?
意味わかんない。
彼の連れていた女の子がくすっと笑った。
あたしはその場に取り残された。
*
しばらく――実際には何時間かみたいだったけど――ぼんやりと立っていたあたしは、やっと自分が携帯を手に持っているのを思い出した。
ずっと握り締めていて固まっていた右手をほぐし、最もかけなれた、親友の番号に電話をかける。
相手はなかなか出なかった。延々と呼び出し音が鳴って、留守番電話サービスに繋がった。普段なら腹立たしいその声も、あたしはぼーっと聞き流し、声が聞こえなくなったのに気付いて、ようやく録音が始まっていると思い至った。
何が言いたいのかよく分からなかったけど、何か言わなくてはならないような気がして、とりあえず言った。
「……サチ? えっと。ユイだけど……何かあたしコージに振られたみたい」
他に言う事がなくなったので、それだけ、と呟いて電話を切った。
切ってから、ばかばかしい事をした、と後悔した。だからといって、今更取消もできない。
こんなものサチに言ったって他の友達に言ったって仕方ない。彼女たちに何かして欲しいわけじゃないし、言ったからどうなる訳でもない。
もっとずっと、自分は冷静で落ち着いた人間だと思っていたけど、実は動揺しているのかもしれない。
でも涙は出ないな、と思った。
そこから動く気にもなれなかったので、そのまま立っていたら聞き慣れた着信音が聴こえてきた。コージとお揃いにしてた着信音。
手元を見ると、液晶に“山崎紗智花”という文字とサチの顔写真が表示されている。ほとんど無意識の動作で電話を取って、耳に押し当てる。
『ユイ? 大丈夫? 平気? 今どこ?』
もしもし、という間もなく、サチが立て続けに言った。
「うん。平気だよ。何で?」
『何でって……ねぇ、今どこにいるの?』
どこだっけ。えっと。
「新宿」
『……の、どこ!?』
「交差点?」
目に入ったので言ってみる。
『ちょっとユイ、本当に大丈夫?』
「ダイジョーブだよ。変な電話してごめんね」
『そんなの良いから、アンタいつ家帰る? 今日バイト終わったら行くからさ』
「じゃあもう家に帰るよ」
今朝は慌てていたから、部屋は荒れ放題のはずだ。あいにく一人暮らしなので、勝手に片付けてくれる人もいない。サチが来る前に簡単に掃除をしようと思った。
『わかった。あとちょっとでバイト終わるから、すぐ行くね。待ってんのよ? そうだ。夕飯作ったげるよ。美味しい奴。期待しててね!』
急に明るくサチが言うから、どうしたんだろうと思ったけど、あたしはありがとう、と言って電話を切る。
それからもう一回まわりを見回した。
知らない内に日が暮れかけている。待ち合わせは午前十時だったから、ずいぶん長くいた計算になる。あんまりそんな気はしない。
――帰らなきゃ。
ずっと立っていてこわばった足は、なかなか思うように動かなくて、あたしはよたよたと歩き出した。
切符を買って山手線に乗る。夕方だからか、人が多かった。戸口の前に立って、扉によりかかった。よりかかった扉が開く時だけ、そこから離れた。戸が閉まると、またよりかかる。
そんな事を繰り返していたら、また誰かから電話がかかってきた。
誰だろう、と思って覗き込んだ液晶にはまたサチの名前。
「もしもし」
『ちょっとユイ! あんたどこほっつき歩いてるの!? 何で新宿にいるあんたが私より帰るの遅いのよ!』
え? と窓の外を見ると、いつの間にやら月が空に昇っている。
携帯の時計を確認する。大分時間が経っていた。
扉の上のモニターを仰ぎ見て、あたしは言う。
「今、渋谷だからもうちょっとかかるかも」
『はぁ!? 何で渋谷なんかにいるの?』
「………………寝過ごしちゃったのよ」
座席に腰かけてフネをこぐ中年の男を見て、とっさにそう言い訳する。
『じゃあ、前のファミマにいるから帰って来たら声かけてね』
「うん、ごめん」
言うだけ言って電話を切る。
席はいくつか空いていたけれど、座る気にはならなかった。
*
家に帰ると、食材も買ってきてくれていたサチが夕食を作ってくれた。
“美味しい夕飯”という言葉に偽りはなく、あたしは食べ過ぎるくらい食べた。サチは片づけまでしてくれて、その後両親の待つ自宅に帰った。
それから一週間、あたしは今までと何の変化もない生活を送った――少なくとも自分ではそう思っていた――。
強いて言うなら、コージとのメールと電話のやり取りの時間がなくなって、部屋でぼんやりする時間ができた。
その日も、あたしがぼんやりしていたらサチから電話があったのだ。
『もしもし、ユイ。元気ー?』
「あ、サチ。どーしたの? 鼻声だよ?」
『実は風邪引いちゃってさ〜。せっかくの天気の良い日曜なのに暇でしょうがないのよ。相手してよ〜!』
無理に情けない声音を作るサチにあたしは声をたてて笑ってしまう。
『ひど〜い! さっき天気予報見たら、もう今日でこの所の良い天気は終わりなんだって。梅雨前線が近付いてるとかで今日の午後からまたしばらく雨が続くらしいよ。嫌よね〜』
そういえば、この一週間雨はふらなかったな、とあたしは窓の外を見た。
サチの言う通り、そろそろ雨の降り出しそうな雲模様だ。
『せっかくいい天気だから買い物でも行こうかと思えばさ〜』
「そーねー。雨って嫌いじゃないけどうっとうしいのよね」
相槌を打っていると、携帯電話の向こうから、「紗智花! 寝てなさいって言ったでしょ!!」と怒鳴り声が聞こえた。
『はいはいはい! わかりました〜! もー。ごめんユイ。切るね』
「ううん。気にしないで。お大事にね」
『うん。ありがとう。……今切ってるでしょ!? 見てわかんない!?』
サチの怒鳴り声を最後に電話が途切れた。
あの元気があれば大丈夫そうだ、と微笑む。
再び窓を見ると、先刻より薄暗くなっているような気がする。
――突然、窓辺のチェストの上に置いた写真立てが伏せられている事に気がついた。毎朝カーテンの開け閉めにチェストの前に立っていたが、気付かなかった。
いつから倒れてたんだろう。
思って、写真立てを手に取った。
写っていたのはコージとあたし。
それを見て、あたしは写真立てを伏せたのが誰か解った。一週間前夕飯を作りに来てくれた時に、サチが気を利かせてわざと伏せたのだろう。
写真の中のコージとあたしは笑っていた。
写真を撮った二週間後には別れているなんて思ってもいない表情。
この時から既にコージには別の女がいたのだろうか。
この時からコージはあたしと別れることを考えていたんだろうか。
コージの笑顔を見つめて、あたしは答えの出ない疑問を浮かべる。
――あたしまだコージが好きなんだ。
何で今まで気付かなかったのか、あたしは唐突に理解した。
――まだ、好きなんだ。
あたしは彼からサヨナラもキライも聞いてない。言われたも同然だけど、それでも聞いていない事には違いない。
かすかな音を立てて、雨粒が窓ガラスにぶつかった。
そのまま雨は勢いを増し、一週間の鬱屈を晴らすように降り注ぐ。
窓は閉まっている筈なのに、あたしの頬にも熱い雨粒が流れた。