simple world
窓の水滴を拭き取るように、空の一部から雲が消えた。そこから大地をのぞき見る月の白さが、広く海を照らしている。海の底と混じり合った色合いは、水に溶かさない絵の具のような青色だった。
かつては墓標のようにも見えた船の姿をぼんやりと眺めている。黒猫はいつかのように身繕いに余念がない。
そうして僕は。
「いつからそうしていたんですか?」
いつかとは逆のように、後ろから近づく音に振り返った。
「お久しぶりです」
「いつから?」
「三日前から」
「そうですか」
「おかしいな。僕がここから出て行ったところは見せてないと思うけど」
「勘です。なんとなく、違って見えましたから」
「勘?」
「嘘です。顔の向きです」
月明かりに濡れた髪。青い瞳が、僕を見る。
これで三度目。一度は送り出し、二度目も送り出した果てに、三度目の邂逅と相成った。
***
「どこまで行ってきたんですか?」
「そのあたり、適当に」
「何か得るものはありましたか?」
「特には」
淡泊な声がさざ波に飲まれていく。
月を背中に向き合ったまま、彼女は微動だにしない。
僕は?
「そうは思いませんが」
「どんなところがですか?」
「今回は、あなたから話しかけてきた」
少女は首を傾げる。
「確かに変化はあったようですね。けれどそれはわたしの変化なのでしょうか」
「僕の変化も、あなたの変化も、極めつけは同じ事なのかも」
「どういう事でしょう」
「違う事がおこった。わかるのはそれだけで、事実は、それだけ。どんな内面がそれを引き起こすのだとしても、結果は、事実は、それだけのものなんだと思う」
二度目に彼女と会った時、僕は聞いた。
僕たちは望まれて生まれてきたのか。
そうだとしても、その事に意味はあるのか。
「違いというのはそれだけのものなんじゃないかと思う。だから、違う事をしたあなたは、変わってると思う」
「違いというのは境界条件がひどく曖昧なものです」少女は言った。「違うと言えば、何もかもが違う。同じと言えば、何もかもが同じ。何を比較するかというのは、何を見たいかというのと変わらない。あなたのそれはわたしの行動を評価したものです。ですがわたしはわたし自身の人格に大きな変化を見いだせません」
「人格そのものには、そりゃ、変化はないんじゃないかな。でも、状況が変われば違う行動をするでしょう? あなたの判断基準は確かに変わってるんだと思う。だから港を綺麗にしたりした」
「なるほど。些細な違いは確かに、感じていました」
得心がいったと、少女は頷いた。
「ならばあなたは変わったのですか?」
「たぶん、僕を取り巻く状況は」
「あなた自身は変わりましたか?」
「たぶん、何も変わってない」
僕はここにいる時から空っぽだった。その意識の中に潜む虚は今も変わらず存在し続けている。
けれど、それでいいと思っている。
それでもいいのだと、思えている。
「目的を一つ与えてあげれば、同じ存在でも、別の行動をする。結局の変化はそれだけなんだと思う」
「あなたの目的はなんですか?」
「あなたと同じだよ」
月の少女の髪が揺れた。風が側を歩いていく。
「あなたは見つけましたか?」
「僕なりの答えは。あなたは?」
「私なりの考えは」
再び風か吹いた。さざ波の音が、遠のくように消えていく。
「おそらくは、生まれる事と生きる事は違うのでしょう」
少女は言った。いつか、月を射るように見上げていたそのまなざしで。
「わたし達は作られました。何故作られたのか。必要だからという事もあるでしょうけど、楽しいからという事もあるのだとわかりました。楽しさを求める事を必要ととらえるなら、それれは同じ事ですが」
「うん」
「けれど作られたものは、作ることが楽しいかはわかりません」
夢の果て。思いの果て。求められたものが、同じものを求めるわけではない。それは別のものだから。その解離の果てにあるものは、新しい始まりだ。
「もしも人間であれば、あるいは生命であれば、別でしょう。本能というものが、生きる理由を支え、存在し続ける助けになります。けれどわたし達は」
CBは人のために作られた。それが全て。
「だからこそ。わたし達の本能は、きっと、どこまで行っても人に求められた役目を果たしたい、その一つにつきるのでしょう」
「そうだね。その役目を果たすことに理由はいらない。それ自体が存在理由だから」
「はい。わたし達にとって役目とは、理由なく追い求める事柄なのです」
少女は髪を押さえた。顎をあげる。月を射る目が、空を向く。
「……それが、きっと恋なのでしょう」
風が吹く。押さえた髪が指をすり抜けて顔を隠す。
さざ波が戻ってくる。彼女の顔が再び見えたときには、もう月を見ていなかった。
……ずっと、理解できなかった。
人に関する記憶。人を焦がれる理由。それが僕にはなかった。だからさも人がいたあの頃が懐かしいと、恋しいと涙するモノ達がずっと理解できなかった。
今でも理解できないし。きっと理解できないだろう。
でも。
それを目指すと心に決めて、ひたすらに歩き続けるモノと出会った。
ひたむきなその姿に僕は初めて降参して、見送るだけの駅長から逸脱した。
「ああ、そっか」
わかった。
竜を生かす方法。新しい命の続け方。無理の探求の結論が懐裡の果てに存在した。
一番最初に、その答えを教えてもらって、だから僕は歩き出したのだ。
「……これからあなたはどうするんですか?」
僕は聞いた。少女は答える。
「恋の相手を捜して、確かめるだけです。そうすれば恋とは何か、全てが明らかになるでしょうから」
「うん、そっか」
その果てに、人間ならば新しい何かを作るのだろう。
そして作られたモノもまた、繰り返す。螺旋状に、同じ軌道を描きながら、けれど異なる場所へと歩いていく。
僕は笑った。何故か笑えた。
手を伸ばす。
「だったら、僕と来ない? 参考までに、一例を見せられると思うよ」
月の少女は頷いた。彼女にとって迷う余地のある事じゃない。
そうして初めて握った彼女の手は、錆び付いたように堅かった。




