第五幕 剣鬼ノ果(下)
鬼部宗吾は、一人の少女に恋をした。
正直言って、最初のことは、そんなことなどありえないと思っていた。女も金も、好きなように出来たし、将来だって安泰だ。別にこれといって、不自由などありはしなかった。だから、恋なんてものは、俺は一生しやしないだろうと、そう思っていた。
しかし、堕ちるってやつは、あんまりにも簡単だった。
暇つぶしに始めた剣術道場で、初めて会った時……俺はあっさりと恋に落ちた。
黒く長く美しい髪。完璧な容姿。文句のつけようがない、お淑やかな大和撫子。
俺はあいつよりも美しく、完璧な女に出会ったことはないし、きっとこの先出逢うこともないだろう。
そしてあの瞬間――鬼部宗吾は、確かに恋に落ちたのだ。
その女には兄がいた。顔もいい、気立てもいい、そして剣の腕でも右に出る奴はいないと来た、妹も完璧なら兄も完璧というやつだ。
兄弟仲は良かっただろう。いや、良すぎると思っていた。
妹は常に兄の後ろに立ち、兄がいない時は一言も口を開かなかった。いや、開きはするだろうが、少なくともその瞬間を、俺は見たことがない。
その時、俺は既に悟っていたんだ。あの女は……兄に恋をしているということ。
しかし叶うまいと思っていた。兄妹であるならば、その恋は叶わない。そう思っていたし、間違いじゃなかったと思う。
だから婚姻話を聞いたとき、真っ先に俺は飛びついた。親父の権力を利用し、半ば脅迫も同然に承服させて、俺は有頂天だった。
あの女は俺のものになる。そう思えば、正直言って他のことなんざどうでもよかった。
だから……だからあの光景を見た時。
俺の中で、何かが壊れる音がしたんだ。
端的に言えば、妹は、きっと狂っていたのだろう。
恐らく叶わぬ恋にずっと焦がれ、そしてそれが本当に敵わないと知り、そしてなまじ中途半端に適ってしまったがゆえに。
あの時……俺に犯される寸前。あの女はこう言った。
『……これで、兄様はずっと私のもの』
毒婦のような、そんな笑みを浮かべて――
『兄様は……ずっと、私だけを、愛してくれる……』
そう言って、女は舌を噛み切り、そして死んだ。
俺はどうしてもそれが許せなかった。兄も、妹も、どうしても許せなかった。
妹をバラバラに切り刻み、その首を切り取って、磔にしたのもそのせいだ。しかし……その首を後生大事に持って帰り、ましてや兄を、河に突き落とすとかいう不確実な方法を取ったのは、何故だか自分でもよく分かっていない。
そしてその首を、気持ち悪いと思いながら、骨だけの頭蓋骨になっても、こうして蔵の奥に保存しているその意味も、彼には分からなかった。
しかし……今、ようやく分かった。
鬼部宗吾は眼を覚ます。
そこは蔵だった。……そして、自分の目の前には、あの女の首を入れた壺があった。
ああ――そうだ。
これは呪いなのだ。
死してもなお結びつこうとする、呪いにも似た妹の愛。
この結果を誘うためだけに、鬼部宗吾にそうさせた、女の呪い。
首だけになって、骨だけになって、それでもまだ男を愛して求め続ける――毒婦のような呪いなのだ。
「――ッ!」
ダンッ、と壺を叩き……しかし何も出来ない。
俺は無力だ。俺は弱い。俺は愛されず、全てを失う。全てを奪おうとしたあの日……しかしその実、全てを奪われたのは宗吾だったのだ。
背後では、未だ喧騒が聞こえてくる。もうすぐ、あいつがここに来るだろう。
横に置いたままの、刀を手に取る。
ああ抵抗してやる。抵抗してやろう。お前らの愛など、成就させてたまるものか。
呪いにも似た決意を抱いて――鬼部宗吾は、立ち上がった。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
伊部正九条嘉隆は、満身創痍であった。
内側からの傷、外側からの傷、数えれば数限りない。血はとめどなく流れ、立っていることのほうがむしろ奇蹟だと断言できる。
屋敷に集った二百の兵数は、その数を半分以下にまで減らしていた。
残り百。しかしその百の士気は衰えていない。敵は満身創痍、討ちとれば大金星……もはや獲らない手などない。まるで狂ったように突撃し、刃を振りおろしていく。
しかしそれほどまでに満身創痍でありながら、『血桜』は、やはりまだ剣鬼であった。
襲いかかる軍勢の首を狩り、胴を割き、頭を貫いていく。剣速こそ衰えても、それでも死の暴威は未だ顕在であった。
「楓……」
もうすぐだ――もうすぐ、お前に辿りつく……。
返す刃が腕を飛ばし、さらに返す刃が頭を割った。
「楓……」
もはや……あまりにも多くの命を奪ってしまった。今も、こうして奪っている。
しかし後悔などはない。お前を愛するために、お前を抱くために、俺は幾千でもその魂を刈り取ろう。たとえそれで、俺が底の底まで地獄に落ちたとしても。
閃く刃が再び五つの魂を散らしていく。しかし、敵の数は増える。まだ増える。
絶望的な状況の中で――しかし、嘉隆は、己が楓の元に辿りつくであろうことを確信していた。
三つ、四つ、五つと頭を飛ばして……そして、屋敷の中。ひっそりと立つ蔵を、視界に収めた。
「楓――!」
あああそこだ。あそこに違いない。あそこに、楓はいる。
どうしてだか確信し、一歩、二歩とまた足を進めていく。しかし、その途上――またもや雑兵の群れが立ち塞がり、こちらに剣を振りおろしてくる。
ああ――ならば。
「和泉一刀流……」
絞り出す。お前の元まで辿りつくために。
「嚇嵐――!」
繰り出されたのは、斬撃の嵐であった。
円を描く破壊の渦は、刀ごと兵たちを断ちきった。圧倒的な剣の冴えによって成された破壊の嵐が、彼を取り囲んでいた三十人を、ただの一瞬で斬断する。
「楓……」
もはや誰もいない庭の中、嘉隆は歩きだす。
足を引きずって、体を引きずって、それでも前へ前へと。
「楓……!」
ようやく辿りついた蔵の戸を、残る全力でこじあける。
そして、そこにあったのは……抜き身の刀を持った、鬼部宗吾の姿であった。
現れた、満身創痍の剣鬼の姿に……鬼部宗吾は、眼を開いた。
妹も呪いなら、兄も呪いだ。その通り――既に立てるはずがない傷を負って、それでもまだ剣鬼は立っていた。
「来たかよ……嘉隆」
「……宗吾」
互いに名で呼び合う。知らぬ仲では無論なかった。
恨み、恨まれ合う天敵同士。そしてそうでありながら、かつては同門の徒であった二人。その二人が、今……互いに己が刀を手に、対峙していた。
「楓は……どこだ……」
その問いに、藤吾が差したのは……一角にある、古ぼけた壺だった。
「妹ならそこにいる。だが……」
その前に、と、宗吾はその切っ先を嘉隆へと向けた。
「お前にはやれん。お前らの呪いを、ここで叶えさせてやるつもりなどない」
断言する。しかしその一方で、己が嘉隆に叶うべくもないのは知っていた。
同門とはいえど宗吾の剣は、所詮只人の域を出ない。
だが俺は負けない。俺は死なない。貴様らのような人外の糞どもに、いいように利用されて、それで終いだなどと通るはずもない……!
「いくぞ……っ!」
よって。もしも抗しえるとするならば、この気概ただ一つのみ。
その気概をぶつける勢いで、全力で刀を振り下ろす。
「……っ!」
対する嘉隆は既に満身創痍。限界など既に超えている。
ゆえに……求められるのはただ気概。立て、立てよと己を鼓舞するそれのみ。
刀を打ち合わせる二人。その実、勝負は既に気概のみのそれと堕していた。
「お前が……お前がぁっ!」
剣を弾き、宗吾はさらに下段から剣を一閃する。しかし当たらない。
寸でのところで避けた嘉隆であるが、しかし、かつての剣鬼と呼ばれた生彩は、既に欠いていた。
「お前さえ、いなければ、俺はァッ!」
呪詛のような憎しみを吐きだして、宗吾は、さらに一閃、二閃と剣を閃かせた。
しかしいずれも避けられ、弾かれ、無為に没する。だがかつての剣鬼であるならば、とうの昔に、返る一閃で宗吾の首を跳ねていたはずであった。
要するに……満身創痍の嘉隆の剣は、既に、宗吾と互角の域にまで堕ちていた。
「愛してやるなら、何故あいつを満たさなかった!」
それは呪詛だった。その呪詛が、嘉隆を蝕んでいく。
「兄としてあるなら、何故そいつを徹底しなかったんだ!」
しかし宗吾の叫びは、逆恨み以上のものでは断じてなかった。
奪ったのは己。そしてその結果奪われたのも己。つまり、すべてが自業自得。
だがそれでも吐きださずにはおれないのだ。吐きださなければ、再び毒婦の手に絡め捕られ、ただの走狗に堕しかねなかったから。
「お前はあいつを……あいつを愛していたのか!? 男として――」
そしてその毒は、嘉隆の胸を穿つ。
それは幾度となく、自らに放った言葉だった。しかしそれがこんなにも痛いだなどと、彼はこれまで感じたことなど一度もなかった。
愛していたのか。愛していたのだろうか? 俺は……俺は――あいつを……。
「……愛していた」
いつしか、眼から止めどない涙が溢れて――
そして、心の裡が、口から滑り落ちていた。
「……愛していた。男として……俺はあいつを……愛していたんだ……」
今まで気づかなかった、秘めていた想い。いいや、お互いを求めることを楓のせいにして、一度も口にできなかったその罪。
男として。兄としてではなく男として、俺は妹を愛していた。
いつからだろう。妹を抱いた日? いいや……もっとずっと前? 気づかぬわからぬと眼を閉じて、その気持ちに栓をしていた。
気づきたくなかった。己のその罪に向き合いたくなかった。あいつは、そんなものをとうの昔に覚悟して、俺の方を向いていてくれていたというのに。
その結果があれで、そして俺は修羅に堕ち、今まで無数の命を奪い去って来た。
ああ自業自得。まったくもって自業自得――それゆえに今の俺は、ただの剣鬼。ただの悪鬼。ただそれだけの人でない何か。
……もしあの時、俺が本当の想いを伝えていたらどうなっただろうか。
誰かが救われただろうか。何も変わらなかっただろうか。
ただ、今――言えることは只一つ。
もう、その愛を伝える相手が、どこにもいないということ。
それが悲しい。
悲しくて悲しくてたまらなくて、両の眼から止めどない涙が溢れていく。
剣を打ちならし、火花を散らすその中で――宗吾は瞠目していた。
男の気持ちを聞き、知って、ああやはりかと、そう思いながら瞠目せずにはいられなかった。
彼はきっと、それを伝えるためだけに今まで生きてきた。
伝えられなかった気持ちを、死してなくなってしまった妹に伝えるため、剣鬼となって、そして人でない何かとなり果てて、それでもなお伝えるために。
それを理解したがゆえに――。
「ああああぁあああああ――!!!」
宗吾は、知らず、全身全霊で突きを放っていた。
ああ認められない。認められるはずがない。俺が、ただそれだけのために用意された端役に過ぎぬなど、ああ断じて認められない。認められるはずがない。
そして、返される涙に濡れた刃もまた、同じように放たれて――そして交錯し。
二つの刃は、二人の心臓を貫いた。
ごぷっ、と嘉隆の口から血が溢れる。そして同じように、至近距離で血をあふれさせた宗吾は、小さく眼を閉じて――
「……クソ、が……」
悪態によって、その生を終わらせた。
嘉隆はその場に倒れこむ。
抜き放たれた傷痕から、止めどなく血が溢れ、そして全てを赤に染めていく。
死だ。それは死だ。
もう避けられない。どう足掻いても、自分は死ぬ。
だがその中で……動けるはずのない、体は、這って、這って、前に進んでいた。
「楓……」
それは音にはならなかった。言葉は、喉に満たされた血の中で、こぷりと弾けて終わる。
痛い、辛い、だるい、怖い。ああ……悲しい。
その感情の海の中で、それでも嘉隆は足掻く。足掻いて、足掻いて、手を伸ばして……
そしてその手が、ひとつの壺に触れた。
ことり、と自分のほうに転がった壺の中から……一つの白が転がり出てくる。
それは頭蓋骨だ。何者かの、今はもうはるか昔、命を失った誰かの。
「あ、ああ……」
けれど。
けれど、彼だけは……九条嘉隆だけは、理解した。
「楓……」
見間違えようもない。分からないはずがない。
こんなにも見た目は変わってしまったけれど。
それでも、それは己がかつて愛した女であった。
「楓――」
そっと、頬を寄せて……
「愛してる――」
そして――口づけを交わした二人は、そのまま、果てのない闇へと沈んでいった。
第五幕、終。そして終幕へ。
次回、エピローグ。