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第五幕 剣鬼ノ果(上)

 ――夜半。

 誰もが寝静まる頃合いで、しかし、鬼部家の屋敷門では、昨日からの緊張が続いていた。

 いつ、が現れるとも分からない……などと言われてしまっては、兵士たちが休まる時もない。彼らは職業人とはいえ、やはり人間。二日目ともあり、早くも疲労の色が見え始めていた。

 根本的に、この門の護りを任されるのは、もともと町奉行に使えていた同心たちだった。この異常事態、岡っ引きの連中など全員ひっこんでしまった。奴らは根本的に、同心に雇われた使用人、本業ではなく副業なのだから仕方がないが。

 とはいえ、人数が足りていないわけではない。三百という大規模な増援のうち、二百がこの邸宅の警備……もとい、鬼部宗吾氏の警備に割かれていた。残り百は町中の巡察だ。

 奴の狙いが鬼部家、そして町方与力である鬼部宗吾にあることは疑いようもない。であるが、夜中の警備はすべて、町奉行の同心に任されていた。

「あー寒ぃ……」

「言うなって。余計寒くなるだろうが」

「いいよなあ、藩の連中は。今頃ぐっすりだぜ?」

 あの連中は偉そうにふんぞりかえるだけふんぞり返って、肝心の夜には全員が寝ているわけだ。まったくもって馬鹿馬鹿しい話である。

 くそっ、と鼻息も荒く悪態をついて……ふと、気付いた。

「おい……足音が聞こえないか?」

「なに……?」

 じゃり、じゃり、という土を踏みしめる音が、闇に木霊する。

 見える範囲には何もない――しかし。

 徐々に――かがり火に照らされて、姿を現した男の影。

「なっ、何者だっ!」

 咄嗟に鯉口を切り、声を荒げたのは、恐怖によるものだ。

 剣鬼『血桜べにざくら』。よもや自分たちが敵う相手だなどと思わない。奴はあの前園伊織を殺し……そして六十人をも殺傷せしめたのだ。

「止まれ! 何者だっ、名を名乗れ!」

 絶叫にも近い二人の声に、じゃり、と、前へ進む足が止まった。

 そして、闇の向こうから――声。

「名前……ですか」

 わずかながらの安堵を禁じ得なかったのは、その声に、殺気などと呼べるものはまるでなかったからだ。ごくごく自然体……いやむしろ、優しげな男の声。

 わずかに解けた緊張の中、ようやくになって冷静さを取り戻した二人は、お互いに頷きあって、わずかに呼気を吐いた。しかし、臨戦態勢は解かないままだ。

「……そうだ。名を名乗れ。ここに何の用だ」

「ふむ……そうですね。私の名前は――」

 返る言葉は、やはり穏やかだった。

 しかし――

伊部正九条嘉隆いべまさくじょうよしたか――貴方がたを、斬りころしに参りました」

 そして続く状況に、対応出来た者はいなかった。

 ぱんっ、という短い音と共に、左の男の首が落ちる――。

 馬鹿な……唖然とする。間合いは遥かに遠かった筈。瞠目する男の視界に、しかしはっきりと答えが映った。

 音もなく、勢いもなく、一瞬で間合いに踏み込んだその剣鬼は、そのまま居合で男の首を刈ったのだ。それを一瞬きの間に終えた剣鬼は、もう一人……気まぐれに生かしたもう一人に、刃を突きつけた。

「どうか、お伝えください。……鬼部宗吾殿。貴方の首を頂戴しに参りましたと」

「ヒッ――!」


 全力で屋敷の中に逃げ去った男の背を見つめ、嘉隆は刃の血を拭き取り、鞘に収めた。

 そのまま、何の遠慮もなく屋敷の中へ足を進める。

 暫くして――騒ぐ声と走る音、あっという間に慌ただしさで満ちた屋敷の内部で、こちらへ駆けてくる百を超える軍勢の足音を聞いた。

 そしてけたたましい鐘の音。それが響き終わるや否や、今度は屋敷の外だ。こちらも百を超えるであろう気配が、屋敷に向かって駆けてくる。

 その数、二百を超えるだろう。

「クッ、ククククッ……」

 その状況。己が見ても人が見ても、絶体絶命。

 瞬く間に、猫も通れないほどの包囲網が完成し、都合百を超える刀がこちらに向けられる。

 その状況で……その状況で、彼は笑っていた。

「クククク……ハッ、ハハハハ! 早く出て来てくださいよ……。出て来て下さらないと――」

「……下さらないと、何だ?」

 包囲網の向こう、響いた声に、ざっと人並が割れた。

「この状況で笑うとはな……まさしく狂人か」

 前園匡康まえぞのただやす。かつて己が殺した男と瓜二つ、しかしその実正反対の男。

 その登場に、やはり嘉隆は笑みを深めた。

「いえいえ。早めに出てきてくださって助かりましたよ。あんまり遅いようですと――」

 はっ、と匡康が瞠目すると同時。

「っ……下がれ――っ!」

 その言葉が終わるよりもなお早く。

 颶風が、死を纏って駆け抜けた。

「和泉一刀流――紅葉くれは落とし、疾風(はやて)(ろく)

 それはかつて見せた、円を描く死の具現。

 反応出来たのはたった一人。その一人を除いて、周囲を取り囲んでいた十の首が、あっけなく落ちた。間合いの外であったにも関わらず、容赦なく割断する魔刃の理。

 それを回避したたった一人の男こそが、むしろ異常であるのだ。

「ふふ、やはり避ける避ける……。面白いなあ。貴方達は本当に面白い」

「…………」

 瞬間、前園匡康は理解した。

 この男は、己が殺さねばならない。いやせめて、腕の一本、指の一本でも落とさなければ……この屋敷は、落ちる。

 しかし、吹き荒れる殺気はまさしく暴虐のそれ。弟が斬られたと聞いた時は、はっきり言ってろくろく信じることなど出来なかったが……しかしこの男。まさしく剣鬼だ。

 剣に魅入られ、狂気に魅入られ、そして人外となった死の具現。

「そうか。貴様が……」

 すっ、と刀を抜いた。それは、弟のような大太刀ではなく、至って普通の刀。

 それと同時――

「俺の弟を殺した糞か」

 剣鬼に伍するほどの殺気を撒き散らした。

伊守神道流いのかみしんとうりゅう――前園匡康」

 その質は、怜悧。剣鬼が憎悪に満ちた闇とするならば、絶対零度の氷を押し当てるような――前園匡康の殺気はそれだ。

「和泉一刀流――伊部正九条嘉隆」

 かくして、剣鬼もまたそれに応じ。

「「いざ、尋常に――」」

 剣を構える。殺気が張り詰める。そして――

「「――勝負」」

 かくして、火蓋は落とされ……かの弟と同じく、一対一となったその勝負。しかしその一方で、弟とは全く異なる様相を呈する激突が、ここに生じた。

 すなわち、静止。

 お互いに、構えて動かない。

 構えは共に青眼。しかし張り詰める殺気は、以前それを遥かに倍するものだった。

 まったく動いていないわけではない。

 近づいていく……近づいていく。間合いの殺し合い。削り合い。隙を窺い合う……本来この時代において、もっとも正道であり、もっとも当たり前に存在する死合の形だ。

 しかし、剣鬼においてその理屈は通らない。

 先の一閃が証明した通り、剣鬼に間合いなど関係ないのだ。

 だがしかし一方で。剣鬼の業は、鬼による神通力などでは断じてなく……あくまでも、人体操作の成せる技に過ぎないことを、匡康は看破していた。

 たとえば先のそれ。あれは、別に間合いが伸びたのではない。あのとき剣鬼は、確かに踏み出していたのだ。踏み出し、そして前後左右を薙ぎ払った。それをあまりに超常の速度で行ったが故、誰も視認できなかっただけの話。

 それが証拠に、剣鬼の足元では、その足痕がくっきりと残っていた。

 であれば、ここに、尋常なる立ち合いが実現する。しかしその内実……一瞬きほどの間もなく、この間合いをお互いに踏み越え得るのだ。

 そして踏み越えた時……かつての弟による激突を越える、人外同士のぶつかり合いが生じうる。

「…………」

「…………」

 沈黙。そして静寂――。

 そして……不意に、匡康の腕が動いた。

 構えの変化。するり、と動いた腕は……青眼から、そして大上段へ。

 無論、もとより互いに射程圏。しかし匡康のそれは……二歩で届く距離から、一歩で届く距離へ。

 大上段。もっとも攻撃的で、そして最も速度のある構え。振り上げる動作は必要なく、ただ振り下ろすだけで完結する。

 これはこの状況における鬼手であった。そして、嘉隆は構えを青眼から崩さない。

 かくして――

「――ッ!!」

 それは、どちらの呼気であったのか。

 漏れる音も置き去りに――二つの影が疾駆した。

「チェアアアァァァァァ!!」

「ハァアアアァァァァァ!!」

 振り下ろされる、大上段。半ば信じられない思いで、嘉隆はそれを見ていた。

 圧倒的速度。大瀑布のごとき勢いで、振り下ろされた一刀は唐竹の型。振り上げ、振り下ろすのではとても間に合わない。ましてや交叉法カウンターなど、間に合う予知もなし。ゆえに求められるのは、青眼から求められる最速変化――!

 限界まで引き延ばされた時間の中、構えは両腕から片腕へ。伸ばされる腕は、大上段の間合いの外。即ち――突き、だ。

「シッ――!」

 間合いの外から放たれたその刃は、迅雷の如き速度で疾駆した。

 交叉する白銀――。

 しかし、振り下ろされた唐竹は、すんでのところで嘉隆に届かず。

 間合いの外から放たれた突きは、しかし匡康の頭を捉え損ねていた。

 両者殺し尽くせず。しかし――

「「――ァアアァァァァ!!」」

 続いた刃は、霞むように瞬いて、中空に火花を散らした。

 右袈裟、唐竹、胴薙、切り上げ、逆袈裟、そして再びの唐竹打ち下ろし。

 火花を散らす刃は、瞬く間に十合を超え、二十合を超え、三十合を越えた。しかしそのいずれもが、お互いの刃で弾き返され、決定打へと至らない。

 それは、かつての闘い……よく似た男との闘いの焼き回しのようにも思える。

 しかし内実で――そうではなかった。

 あの男の刃は愚直。己の真の力を信じるがゆえ、化かし合いもなく押し通す力技。それを可能にする力があり、そしてそれゆえに強者であった。

 しかし対する兄。彼の剣はあくまで徹頭徹尾理詰めの剣だ。百ある答えのうちから、常に最適の一を見つけ出し実行する。最適を選び損ねれば死ぬその一方で、選び続けることができれば常に最強、断じて折れぬ負けぬ最強の剣。

 そして今――前園匡康は、かつてない精度で致死の嵐を捌き続けていた。

 あるいは外から見れば、掛け値なしに美しい死の舞踏トーテンタンツ。しかしそれは死者を誘い、恐怖を前に狂乱させる踊りであって、見世物などでは断じてない。

 斬撃、斬撃、斬撃、斬撃。斬り結ぶ度に火花が散り、一切の遅れもなく互いの動きが高まっていく。

 ――その最中で。


「……ッ!!?」

 ごっ、と、嘉隆の口から血があふれた。


 何かを受けたわけではない。傷がついたわけでもなく、斬られたわけでもない。

 それはもとよりある、体の内側の損傷。肉を切られ川に流され、生死の淵をさまよいながら生き残った彼はその実、二年もの間、未だ死の手前で留まっているにすぎないのだ。

 度重なる疲労と戦闘は、彼の内側に色濃い損傷を残し、そして傷痕を切開して――

 それゆえに起こったのが、昨日の昏倒。即ち……伊部正九条嘉隆のその体は、とうの昔に限界を超えていたのだ。

 それゆえに、不可避。己の内側から湧き出たそれを、防ぐことはおろか、逃げることすらも敵わない。

 そして生じたのは、一瞬の遅れ。常人からすればまったく気づけない類の、わずかな隙。しかし――

「……終わりだ」

 今相手にしている人外の類おとこが、この隙を逃すなどありえない。

 落ちる白銀の瀑布

 それを、呆然と、嘉隆は見詰めた。


 ――俺は、ここで死ぬのか?


 もはや避けられない。避ける術などない。迫りくる死から、逃れる術などどこにもない。


 ――お前を見つけられず……宗吾も殺せず……


 ああ死ぬことなど怖くはない。怖いはずがない。お前のところに行ける……あれほど望んだ。


 ――お前の仇も討てず……お前の首も取り戻せず……


 しかし、この瞬間。こうして思い浮かぶのは……かつての光景、その走馬灯。


 ――お前を奪った世界やつから……お前の欠片も取り戻せず……


 愛していた。お前を愛していた。兄として。一人の男として。全存在を懸けて。


 ――楓……俺は……


 木霊する。あの時泣き叫んだ、妹の声。あの時俺を愛した、妹の声。


 ――俺は……ここで……


 明滅する。引き裂かれた妹。焼き尽くされた全て。取り戻すと誓ったあの時、風に消えていったお前。


 ――俺はここで……死ぬのか……?


 嫌だと……そう思った。

 死にたくないと――この時、は初めて、心の底から願った。


「あ、が……ッ」

 白銀が落ちる。俺の心臓に落ちる。俺の全てが奪われる。俺の全てが消え去ってゆく。

 それは駄目だ。あいつを愛した……あいつを愛していた俺すらも消えるのなら、あいつはどこに行くというのだ?

 それだけは許せない。それだけは断じて許せない。あいつがこの世から消え去るなんて、その理不尽などあってたまるものか。

 だから……死にたくない。死にたくない。死にたくない――!

「う、あ、ぁあああああああああああああああああああああああ――――!!!」

 振り抜かれた一刀が、俺を切り裂いていく。だが、しかし……

「なにっ……!?」

 振り下ろされた銀色の向こう、瞠目する男の姿が見えた。

 傷は、心の臓にまで届かなかった。振り抜かれた刃はしかし浅く、鈍痛を伝えはしても、この芯までは届いていない。

 視界が滲んだ。ああ、俺は死んでいない。俺は……お前の手の届かないところになんて、行ってない。

 振り抜かれた刃の向こうで、瞠目と共に、男の顔が絶望に染まっていく。ああ、今なら分かる。この表情の意味。

 死にたくないのだ。誰だって死にたくないのだ。

 失われること。その痛みが、慟哭が、そして絶望を形作る。

 ――そして俺は奪ってきた。無数の命、無数の犠牲、無数の死。ああ贖えるなんて思っちゃいない。赦されるなんて思っちゃいない。きっと俺は、黄泉の果ての、その果てにまで堕とされて、やがて裁かれるのだろう。

 だが、それでも――俺は、もう、この道を選んだから。

 嘉隆は、剣を握り……

 そして、男の首を刈り取った。

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