第二幕 百鬼夜行
どうやら逃げる最中に水さえも無くしてしまったらしい少女は、手渡した水で口を濯ぎ、ふう、と一息を吐いた。
残り半分ほどとなった水筒を、こちらに差し出すと、ぺこりと頭を下げる。
「ごめんなさい、ありがとう」
「いえ」
言いながら受け取って腰へ括りつけると、そういえば、と少女は立ちあがった。
「まだ、名前も聞いてなかったわね」
「ああ……そうですね」
少女に向き直り、頷く。そういえばお互いに名前も知らないままだった。
男としてはそれ自体、特別不都合はないと思っていたが、女としては困るらしい。こちらを見上げてくる爛々とした視線が、「早く名乗れ」と告げている。
「……私は、九条嘉隆と申します」
「じゃあ嘉隆さん、で構わない?」
「はい」
ふふっ、と少女が小さく笑った。
「私はゆき。よろしくね、嘉隆さん」
「はい、ゆきさん」
お互いに会釈を交わし、そして森の中を進んでいく。
横顔を見るに、もう、先ほどの影は消えていた。恐怖や怯え、そういったものは見てとれない。あるいは感じていないのかもしれないし、もしかすれば、押さえこんでいるのかもしれない。
しかし言えるのはひとつだ。この少女は、強い。力ではなく、心が。
そして美しいと思う。もし抑え込んでいるのだとしたら、それはきっと、彼女を助けた自分への配慮なのだろう。優しく、そして美しい。
(…………)
不意に、少女の影を思い出し――
「……ええと、嘉隆さん?」
その紅色の追想を、少女の声が打ち破る。
はい、と応えて嘉隆が顔を上げると、不思議げな少女の顔を映った。
「どうかしました? ちょっと……怖い顔してましたけど」
「そう、ですか?」
「ええ。返事しても返してくれなくって」
なるほど、少しばかり追想の中に耽っていたらしい。
彼にしてはままあることだ。なんでもないと嘉隆はかぶりを振った。
「それで、どうかしました?」
「うん……今、近くの村に向かってるんだけど……嘉隆さんは大丈夫なの?」
わけがわからずに首を傾げると、ゆきはかぶりを振って付け足した。
「いや、どこか行くつもりじゃなかったのかなって」
そういえば、何も聞かず何も言わないまま、彼女の後ろについて歩いていた。別に目的地がどこでも良かったわけではない。単に聞くのを忘れていただけのことだ。
「あー……近くの村っていうのは?」
「園守町。私の生まれた町よ。この先の街道を、二里超えたぐらいにあるの。この辺じゃあ、多分一番大きい町だと思うんだけど」
「……なるほど。それは重畳だ」
言いながら藪をかきわけて、ようやく街道に辿りつく。
少女は小さく溜め息を吐きながら、良く分からないといった感じで嘉隆を見返した。
「いや。ちょうど、私も園守町を目指していたんですよ」
「あの町を? どうして?」
問うた少女は、その実、その問いを何故発したのかは自分でも良く分からなかった。
園守町は、至って普通の宿場町だ。これといったものがあるわけでもない。ただ浪人が、宿場町を目指して歩くというのもごく普通の光景で、別に不思議なことではない。
それでも、なぜか問うてみたくなったのは……きっと、そう。この男はきっとその町を……何らかの到達点にしているような、そんな気がしたから。
少女の問いに、男は薄く笑った。
「……少しばかり、人探しをしておりまして」
「人、探し?」
ええ……と、そう笑った男の顔は、しかしなぜかとてつもなく悲しげで。そして、とてつもなく……凄絶な何かを秘めているように、ゆきは思った。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
「たっだいまー!」
長屋の引き戸を開けて、一声を放つと、開け放たれた襖の向こうから大男が姿を見せた。
一言で言えば厳めしい男だ。熊のような、という形容が違いなく似合うであろう。さらに片手には抜き身の刀を握っているのだから、その厳めしさも倍増である。
「おう、おかえり。……なんだ、その男は?」
意外にも柔和な声で返事を返すと、しかしすぐさま返す刃で、嘉隆に眼をやった。
嘉隆としては実のところ、ここまで送る義理もなければ、わざわざ家で歓待される覚えもない。ただ、どうしてもとせがむ彼女を振り切れず、ずるずるとここまで来てしまったのである。
よって、なんだ、と聞かれれば当然返す言葉もない。しかし彼が視線を彷徨わせるよりも先に、大男に言葉を返したのはゆきだった。
「私の恩人。嘉隆さんって人。山賊にやられそうだったところを助けてくれたの」
山賊、と言葉を出すや否や、大男はぎょっと眼をむいた。片手に持っていた刀を投げ捨てるや、がっと飛びつくようにゆきの両腕を掴む。
「山賊ぅ? おい大丈夫なのか、ゆき! 怪我はないか!?」
「だから大丈夫だって! その人に助けてもらったの」
がくがくと両腕を揺らされ、若干迷惑そうな顔で嘉隆を指差す少女に、なるほどと思った。
恐らく二人は親子で、それも仲はとても良好らしい。ちなみにここに来るまでに聞いた話によれば、彼は鍛冶屋とのことだ。片手に握っていた刀は、要するにその調子を見ていたのだろう。
ゆきの言葉に、ほっと一息を吐いた大男は、改めてこちらに向き直った。
「すまねえ剣士さん……いや、嘉隆さん。ウチの馬鹿娘を助けてくだすって、本当にありがとうよ」
「いえ……礼をされるほどのことでは……」
なおも頭を下げる父親に、嘉隆としては困り果てるしかない。彼としては、これといって迷惑を被ったわけではないのだから。
「あ、それでねお父さん。良かったら、この人の刀、見てあげてくれないかなあと思って」
頭を下げる父親の隣でゆきがそう言うと、「そりゃもちろん構わないが……」と、こちらを見た。もちろん、その言葉の意味するところを察せないほどではない。
嘉隆は、未だに編笠を外していない。それでは礼節に悖る。不快感は抱いていないようではあるが、不安はどこかで感じているに違いあるまい。
小さくため息を吐きながら、緒を解いて編笠を外した。その下から現れ出た純白の髪に、思わず大男は息を呑んだ。
「……アンタ……もしかして……」
「……」
彼は、きっと思い当たる節があったのだろう。
しかしそれに言葉を返すことはなく、嘉隆はただ俯いていた。すると、その視界の向こうで、ふう、と小さくため息を吐くのが気配で分かる。
嘉隆は分かっていた。騒がれて追い出されることもありうるだろう。あるいは命を取られそうにもなるかもしれない。
それでも構うまい。或る種、それでこの親子の安全は恐らく護られる。それでいい。
――だから。
「なるほどね、うん……。よし兄さん、ちょっと刀を拝借しても構わないかい?」
あっさりとそんな風に言われてしまえば、返す言葉もない。
「……よろしいんですか?」
「何がだい? アンタは一人娘を助けてくれた恩人だ。それ以上でもそれ以下でもないだろう?」
ふっと豪快に笑うと、横でそれを不安そうに見守っていた娘も、ようやく頬を緩めた。いつの間にか、緊張していた空気があっさりと霧散している。
それに戸惑いながら……しかし、疑うべきではないとも思った。その言葉が善意であることは自然と分かるがゆえに。
帯から刀を一本抜いて手渡す。もし、この場で彼がそれを抜いて襲いかかれば、きっと殺さなければならなくなるだろう。恐らく、その後ろにいる娘もまた。
しかし、最初から分かっていた通りそれは杞憂だった。
男は懐紙を口にくわえ、慎重にそれを受け取ると、慣れた手つきで鞘から抜いた。
男が驚いたように眼を見開き、そして眉根を寄せた。ごくり、と唾を呑む声が聞こえる。それは、後ろでひっそりと見ていたゆきのものだろう。
光の照り返しを確かめるように、二度三度と返してから鞘に収め、床に置いた。
「あんた……これで何人斬ったんだい?」
「…………」
不意の質問に、嘉隆は思わず黙り込んだが、いや、と男は首を振った。
「別に責めてるわけじゃあない。刀は斬るための道具だ。斬ってこそ刀も本望だろう。そうじゃなくてだ、分かってるかも知れんが、この刀……もう寿命が近いだろう」
「寿命って……手入れが悪いってこと?」
後ろから顔をのぞかせて言ったゆきに、男はかぶりを振った。
「いいや、そうじゃねぇ、寿命だ。人を一人斬れば、刀の寿命はひとつ縮まる。……ジジイなら分かるがね、アンタみたいな若い人が、刀をここまでするとは……」
不意に黙って、ふむ、と男は顎に手を当てた。
嘉隆は、何も答えなかった。答えたくなかったからではない。ただ、答えられなかったからだ。
斬った人間の数など、もはや覚えていない。襲われては斬り、斬っては襲い、それを繰り返してきた。その数、ここ二月の間に百は超えているだろう。
「……別に、構いはしません」
嘉隆の言葉に、男は顔を上げた。
「刀は所詮道具だ。消耗品でしかない。折れるまで使い潰せばそれでいい」
それは嘉隆にとっての真実である。
ゆえに、憚ることなく押し通す。
「人を斬るは自分自身。刀は、ただ使われるだけの消耗品。ただそれだけだ。ゆえに、たとえ鈍らであったとしても……抜けば、私は人を斬る」
それは当然の理。抜き放った刃が、人を断たずして鞘に収まることなどありえぬ。ましてやなまくらであったから切れなかったなど、言い訳にもならない。それこそ、己自身の真理なればこそ。
その言葉に……男は、刀を置いて立ち上がり、踵を返した。
嫌われただろうか。軽蔑されただろうか。剣士にあるまじき男だと思われただろうか。しかしそれで構わない。九条嘉隆はそれでこそ正道なのだから。
小さくため息を吐き、嘉隆もまた置かれた刀に手を伸ばした……その時。
「おい、兄さん」
呼びとめられ、上を向くと、そこには件の男が帰って来ていた。
その片手に持っているのは、見慣れぬ刀。それを投げ渡すような勢いで、こちらへと放った。
「持っていきな」
思わず受け取った嘉隆に、男はそう告げる。
まじまじと、手の中におさまった刀を見る。鞘は黒塗りで、装飾と呼べる装飾もない。無骨そのものといった風情だ。
眼前で抜き放ち、空に掲げるように、刃を立てる。
「これは……」
波打つ波紋。美しい流線型。
それは、違いなく業物だった。いや……あるいは一度見た、かの大業物にすら引けを取らぬかもしれない。
一切の装飾がないくせに、しかし刃の美しさは、虚飾などは塵芥だと吹き飛ばしていた。しかしそれはあくまでも凶悪であり、あくまでも凶器。斬人の刃としての理を突き詰めたかのような、そんな一振りだ。
「……俺の打った刀だ。一生蔵に眠り続けると思ったがな……アンタにくれてやる」
「そんな……しかしこれは」
あるいは、鞘や柄を変えただけで、幕府に献上できるような品ではないか。
そう言葉に出すよりも前に、男はかぶりを振った。
「俺はもう、偉いさんのために刀は打たねえ。いや、打てねぇんだ。こいつと二人……ただ暮らしていければそれでいい」
ゆきへと視線をやれば、驚いたような顔で父親を見つめている。そして、少し照れたように頬を掻いた。
その言葉に込められた想いを、果たして汲み取れたのか……それは分からない。
しかし、嘉隆は……この刃の輝きに、もはや見惚れていた。
これは凶器だ。これは殺人のための、単なる刀。それだけを考え、それだけのために創られている。しかし狂気ではない……刀とはそうなのだと、ごく自然で、ごく当たり前の結論。
「……俺は、久しぶりに見たよ。アンタみたいな、刀を道具だって断言するような奴は」
彼は……どこか遠い目をするように、小さく笑った。
「親父は言ってたよ。刀は凶器だ。刀は道具だ。刀は人を殺す。刀を打つならば……それを覚悟しなくちゃあならない」
だが、と首を振る。
「俺のところに来た剣士は名無しの礫どもだった。刀は武士の魂? そんなお題目に、どれだけの価値がある。斬ってこそ……血を浴びてこそ刀だろう。たったそれだけの道具に、魂なんざあるはずもないだろうに」
魂は――と、彼は、己の胸を叩いた。
「ここにある。ここにしかない。だからこそ、そいつを大事にしなくちゃならねえ」
そうだろう? と問われ、嘉隆は「ええ」と頷いた。
「だから、使ってくれ。あんたみたいな剣士に、俺はそいつを使ってほしい」
男の言葉に……嘉隆は、師の言葉を思い出していた。
刀は凶器、剣士は人斬り。ただそれだけと心得よと。それ以上を、剣の神髄を求めるのならば――
(……いや)
嘉隆はかぶりを振った。
剣の神髄。武士の高み。どうでもいい。知った事ではない。俺にはただ、殺すための剣があればそれでいい。
奴らを五寸刻みにして、鳥の餌にしてやるだけの力が、あれば。
お前に、再び逢える、その力があれば――
(……っ)
どくん、という心臓の音を掻き消すように、かちりと刀を鞘に収めた。
ここで彼らを斬ったところで意味はない。
「……どうかした?」
顔を上げれば、心配そうな顔でこちらを見つめている、女の顔が眼に入った。
「……いえ。なんでも。本当に……ありがとうございます。こんな刀を――」
「気にすんな。そいつをいつまでも蔵に寝かせ続けるのは、不憫すぎるからな。使ってやってくれ。その方が、そいつもきっと喜ぶ」
そうですか、と答え……不意に、思いついたことが口から滑り落ちた。
「そういえば、貴方のお名前を聞いていませんでした」
「ああ、そうか。そうだったな……俺は――」
不意に、彼は中空に眼を泳がせ、そして、何かを決断したかのように、嘉隆を見た。
「――俺は千子。千子又兵衛だ」
これに驚いたのは、嘉隆だけではなかった。
隣の娘もまた、何をいっているんだ、といった風に眼を見開いていた。まさかそれを他人に言うなんて……と、口に出さずも顔に書いてある。
嘉隆は不意に思い出す。『俺はもう、偉いさんのために刀は打たねえ。いや、打てねぇんだ』――という言葉。その真意は、つまりそういうこと。
千子。即ち、千子村正。――妖刀、村正である。
わざわざ茶まで馳走になってしまった。
もっとも嘉隆としてはすぐに去ろうとしたのだが、ゆきがやはり泣きついてきたのだ。嘉隆としては、あのような素晴らしい刀を譲ってもらった後では断りづらく、仕方がなく馳走になってしまったわけである。
その後いくつかの会話を交わし、日没も近くなった時間帯、さすがに留まるわけにもいかず、嘉隆は暇を告げた。
玄関先まで見送られ、丁寧に礼を告げて戸を開けようとしたとき……物々しい、複数の足音が聞こえてきた。
「待って!」
切羽詰まった声に、手が止まる。わずかに開いた引き戸の向こう――大通りに、恐らく三十人は下るであろう行列が見えた。
わずかに開いた引き戸から盗み見る。その向こうにあったのは……
籠、だ。それも貴族が乗るような、絢爛華美な乗物だ。その簾の向こうから、ふくよかな脂肪を蓄えた男の眼が、面白そうに外を覗いている。
冗談としか思えないような絵面だった。ただの籠の割に四人がかり、その四人の形相も決して楽そうではない。
そして、その両脇に佇むのは、無言の剣士。
かの二人の存在感は異常であった。傍に控える三十人四十人の護衛など、あれに比べれば蟻の行列だ。
姿形は共に華奢。そして顔の形も、ただ見ただけなら判別できないほど同一だった。対して印象は、二つ共に真っ向から食い違う。
一つは静。物言わぬ岩のごとく、しかしそれが両の足で歩いていく。無駄な動作は一切なく、口を開くこともなく、しかし撒き散らされる殺気は瀑布だった。近づいただけで違いなく首が飛ぶであろう、例えるならば抜き身の刀。
一つは動。大太刀を鞘に入れたまま肩の上で弄ぶそれは、あるいは童子のように見える。しかし、それは非力ではない――敢えて言えば残酷さ。死の意味も理由も知らず、戯れて弄ぶように人命を奪う、例えるならば人喰い虎の子。
両脇に控えた二柱がゆえ、人でしかないはずのその列は、よもや百鬼夜行にも似ていた。
「……あの人たちは、前園兄弟です。今は出ちゃダメ……出たら、絶対に殺されます……」
そう告げた少女の言葉は、しかし震えていた。
理由は分からない。そして問わない。
嘉隆の眼は、その列を捉えて離さない。
「あいつらは、戯れに人を殺すんです。目の前で転んだとか、急いで避けたとか、たったそれだけの理由で人を殺すんです。だから……」
なるほど。訪れた時に見た、その大きさには似つかわしくない閑散とした様相は、それが理由であったらしい。
つまらないものになると思っていた。小物を二つ斬って、それで終わるだろうと思っていた。
しかし、神はそこまで無慈悲ではないらしい。
「大丈夫ですよ……」
知らず漏れた声に、彼の自覚はない。
「……もうすぐ、そんな心配など、しなくてもよくなりますから」
その言葉は、確かに優しかったはずだというのに。
しかしその言葉は、どこか黄泉神のごとく醜く、恐ろしく――しかし美しく聞こえた。
日が沈みゆく、逢魔ヶ時。
百鬼夜行は止まらない。
作者ですらたまに読み方忘れます主人公。それってどうなん。
村正登場の巻。かの千子こと村正の、何代目かも分からないような刀鍛冶ということで。妖刀として名高い村正ですが、末代では千子と名乗っていたそうです。もうしばらくもすれば時代と共に色あせて、彼らの技術も消えていくのでしょう。
では次回、一気に復讐絵巻が加速します。