第一幕 血鮮乱舞
「ありゃお侍さんかねえ」
老婆がそう告げたのは、夫が薪を背負ってあばら家の戸を閉めた時のことだった。
これより、もう冬の季節だ。溜めておいた薪はまだ多いが、いくらあっても足りすぎることはない。娘婿が手伝ってくれりゃ楽なんだけんども、というのは二人の老人の口癖だった。
「いいや、ありゃ流れの浪人だろう。立派なお侍さんが、こげなところ通るわけなかろうさ」
「立派な刀さ二本、差しておったけんどもなあ」
言いながら、老婆が薪の紐を程いてゆく。そのまま奥の蔵へと運ぶすがら、そういえば、と老人が言った。
「あのお侍さん、大きな笠さ被っておったろう」
老婆が、ちらと見た男の恰好を思い出し、頷く。
「あの下な……ありゃ、真っ白じゃったよ」
「真っ白?」
へぇー、と老婆が仰天したように声を上げた。
「そりゃまた……なんか辛いことさあったんかねぇ」
「さあのう。そこまでは分からんて」
ただな、と老人は、もうひとつだけ付け足した。
少しだけ、かぶりを振って――
「あの浪人さ……妙に、不思議な眼をしとったわい」
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
女は走っていた。
草履はもうどこかにやってしまった。霜で固まった草が足に痛い。いくらか傷もついているだろう。
けれど足を止めるわけにはいかなかった。それこそ最悪だ。
後ろからは気配。遊んでいるのが分かる。こちとら本気で駆けはしても、所詮は女だ。ましてや十対一ともあれば、それこそ連中に取ってみれば遊びだろう。
(冗談じゃないわよ……!)
ああ冗談ではない。こっちは命が掛かっている。
命までは取らないなんて戯言を、今の世で誰が信じるだろう。用がなくなれば斬って捨て、意味がなくなればやはり斬って捨てる。
ああ嫌な時代だ。まったくもって、嫌な時代だ。
しかし現実というものはいつだって非情だ。距離は縮まり、やがて連中の笑い声と足音が聞こえてくる。
逃げろ、逃げろ逃げろ逃げろ逃げろ――!
ああ嫌だ、死ぬのは怖い。いつだって怖い。本当に怖い。だから逃げろ。たとえ足がもう使いものにならなくたって構わない。だから、逃げろ――!
……そして。
あまりにも必死だったから、前から来ていた人影に、私は気づかなかった。
「……えっ?」
激突。
もつれるようにして坂道を落下し、したたかに頭を打ち付ける。
「いったぁー……」
それは恐らく相手も同じだったのだろう。二人してうんうん唸りながら、しかし冷静になった瞬間、血の気がさっと引いた。
まさか前に回りこまれていたのか。最悪だ。もうこんな近く、絶対に逃げられない。
後ろからも私を追う足音がする。見失ってはいないだろう。まっすぐこちらに走って来る。
(もう、ダメ……)
絶望と言う名の暗い闇が、私の心を押しつぶしていく――と。
「あいたた……。っと……大丈夫ですか? 随分派手に転がりましたけど……」
横から聞こえた柔らかな声。そこでようやく、私はそいつを視界にとらえた。
みすぼらしい、というような格好だった。浪人が着るような色あせた着流しの上に黒の羽織、さらには浪人が被るような薄汚れた編笠だ。腰には、割と立派そうな二本の刀が差さっている。
その恰好は、どこからどう見ても浪人といった感じで……
(山賊、には見えないわね……)
というより連中の中に、こんな男はいなかった。――となれば、無関係な他人……
「おいっ、こっちだぞ!」
背後から聞こえた声に、びくんっ、と背が跳ねる。
ああどうしよう、見つかってしまった。追いつかれてしまった。どうすればいい? この浪人を盾にして逃げる? もともと転がったのもこの浪人のせいなわけで……。
(って、何言ってるのよ、私!)
そんなことが、出来るわけがない。
「……逃げて」
「は?」
割と悲壮な決心を込めて吐きだした言葉を、わけがわかりません、みたいな感じでこの男は首を傾げた。やっぱこいつ置いて逃げようか、と思うが、それは私の矜持が赦さない。
「いいから早く逃げて! あいつら……山賊が来てるのよ!」
「おいっ、いたぞ!」
上から聞こえた声にはっと振り向けば、そこには数人ばかりの男共がいた。
バタバタと足音が聞こえてくる。きっと、今にも全員が集まって来る。
けれど、ここで私が引きとめておけば、きっと彼は逃げられる。どこの馬とも知らぬ輩に、あいつらは興味を示さないだろう。
「早く逃げて。私の決心が鈍らないうちに」
「……ふむ」
困ったように、男は首を傾げた。
「一つ聞きますが、女子の貴方が、どうしてそこまでなさるのですか?」
「決まってるでしょ。私のせいでアンタに死なれたら、寝醒めが悪いから」
ああまったくもって決まってる。そんなのに女も男も関係ない。私が巻きこんでしまったんだから、私が償うのが流儀ってものだ。いいから早く行ってくれ。
このままじゃあ、この人まで死んでしまう。それこそ夢見が悪すぎる。そりゃ死んだ後で、夢なんか見ないかもしれないけれど。
「……なるほど。しかし、それは困る」
男は、かすかに笑うように……そう言った。
「私も、こう見えて剣士であります故。貴方にここで死なれては、寝醒めが悪いというもの」
「そんな……っ!」
私の悲鳴にも似た声を、じゃり、という土を踏む音が遮った。
「何を寝ころんでごちゃごちゃくっちゃべってやがる。っていうか、そのヤロウは何だ?」
ああ、もうダメだ……。
コイツは馬鹿なんだ、もうしょうがない。ここまで近づかれたら、盾にして逃げるってのも無理だろう。山賊の後ろには、わらわらと十人集まっていた。
ここで死ぬのか、私は。ましてやこんなよくわからない奴も巻き込んで。
悔しいのか、呆れたのか、もうよく分からない心境の中、いつの間にか立ちあがっていた男性が、こっそりと耳打ちしてきた。
「一つだけお願いがあります」
ぎょっとする。至近距離に、男の顔があったからだ。
「私の目の前に立たないで下さい。それさえ守って頂ければ、なんとかしましょう」
「なんとか、って……」
続く言葉もないまま、ぼうっと男の顔を見返した。
近くで見て、はっとした。その顔は、どこか儚く、どこか精悍で……一言で言ってしまえば、思わず見惚れてしまうような、ぞっとする色気を持っていたから。
男が笠を取る。そこから現れたのは……まるで雪のような白。それさえも美しいと、そう言ってしまえるような、真っ白い髪。
にこり、と男が笑い、生死の際に立たされているというのに、思わず胸が高鳴ってしまった。
ああ……まったく。もうわけがわからない。
目の前に立つな、ってことは、後ろに立っていろ、ってことでいいんだろうか。要するに……
(戦うつもり……?)
馬鹿な、ありえない。
十対一だ。私も入れれば十対二にはなるけど、それだって大した違いはない。
無理だ。絶対無理だ。戦えるはずがない。勝てるわけがない。
だというのに、今のこの状況、それ以外に打開策もありえないわけで……。
「なんだ、てめェ?」
「おいおーい、オンナの前で恰好つけようってか? かぁ――!」
一番前に立っている男が、トントンと刀の背で肩を叩きながら空を仰いだ。
「状況分かってんのかねえ? 十対一ですよ、十対一?」
男の言うことはまったくもってごもっともだ。
「ええ、まったくもって。ごもっともです」
ですから……と男は嗤った。ぞっとするほどに、美しい笑みで
「とりあえず、ちょっと減らしましょう」
瞬間――
何が起こったのかは、ここに居る誰も……きっと、当人以外、誰も理解できなかった。
ごとり、と音がして、地面に何かが転がった。丸い、何かだ。黒くて、白くて、丸い――。
その正体を理解したとき、少女は思わず悲鳴を上げかけた。
首だ。
不意に、眼球が二つずつ、合計四つ、自らの状態に気づいたかのごとく限界まで見開かれて。
「和泉一刀流……紅葉落とし」
そして、思い出したかのように、胴体から鮮血が噴水のように噴き出した。
居合だ、と思い至ったのは、まさしく男の恰好がその通りだったからだ。
左手で鞘を押さえ、右手に持った刀は血に濡れている。その姿はあまりに自然体で……しかし、その鬼神のごとき禍々しい殺気は、空気すらも歪めているように感じられた。
重苦しい。息苦しい。逃げたい。今すぐ逃げ去りたい。
濃密な血の臭いに吐気を催しながら、しかしそれでも男を見続けるのは……血に濡れるその姿が、恐ろしくも、しかしあまりに美しかったからか。
「馬、鹿な……」
ようやく事態に合点がいったのか、後ろに控えていた八人のうち一人が、呻くように言った。
しかし、それでも事実だ。あまりに速すぎて誰にも見えなかったが、たった一太刀で、男二人分の首を、この男は飛ばして見せたのだ。
ぐっ、と唾を呑みこんで……そして、リーダー格らしき男が、だんっ、と地面を踏んだ。
「な、何やってる! さっさとやれ! 殺せぇ!」
はっと、ようやく呪縛が解けたのか、硬直していた男たちが、めいめいに得物を振り上げて突進する。
刀の血を払った男は、ほう……と嗤った。
「あんまりあっさり死んでしまってはもったいない……」
それは、妖艶で、静謐で、そしておぞましく。
「少しぐらいは……楽しませて下さいよ」
そして構えるは、無行。何のことはない自然体である。
しかし、そこから繰り出された剣撃は、あまりに苛烈であった。
シッ――というあまりにも静謐な音と共に繰り出されたのは二閃。瞬くほどの間もなく、男の指が、そして首が落ちる。
さらに、返す刃で一閃。迅雷のごとく、目視出来ない速度で突きだされた一閃が、上段で突進していた男の喉をあっさりと貫いて絶命させた。
続く一人が悲鳴を上げながら、全力で刀を縦一文字に振り下ろした。速度もタイミングも、かわせるはずがないその一撃を、しかし、瞬いた次の瞬間には、男の指が落ちている。
「は……ハハハハハハハ――ァッ!」
霞むように放たれた六つの斬閃は、先ほど刀を振り下ろした男と、その隣に立っていた男を、原型もないほどに斬割した。
迫る旋風。迫る死。しかし、それに抗う術は存在しない。
速すぎるのだ。
言ってしまえばそれだった。眼に見えない何かが放たれ、そして誰かを絶命させていく。
見えないものを防ぐ術はない。見えないものを避ける術はない。防げも避けれもしないものに、抗う術は人にはない。
四人をたった一瞬で斬り伏せた男は、しかし止まらない。
「ク……クッ、ァハハハハハハハ!!」
ああ、楽しくて、楽しくて仕方がないと。
笑えてしまう。ああなんて楽しいんだ。斬り合い、殺し合う。
ああそれが楽しくてたまらない。狂笑と共に一振りするたびに首が飛び、一振りするたびに命が散る。それはもはや戦いなどとは言えなかった。ただ一方的に、一人が十人を貪り喰らう。
十対一が、一体どうしたというのか。凡百の十が、鬼の一に敵うはずもない。凡百の力が一として、鬼は一つで百なのだから。
そんな馬鹿馬鹿しい話を、今まさに、目の前で実現させる鬼が居る。
鬼に向かって振り下ろされる斬撃。しかしもはや意味など存在しない。一撃たりと彼の服すら掠めることもなく空を切り、返される刃は首を狩る。
「きェァ――!」
その声は崖の上からだった。もはや捨て鉢なのだろう、崖の上から飛び降りざまに斬りつけるべく、大上段に構えて飛び降りる男が二人。
しかし、それに鬼は顔を嗤いに歪めるや――
今までのそれを遥かに凌ぐ斬撃の嵐を、中空に向かって撃ち放った。
瞬く間に十を放った斬撃は、男たちの五体を微塵に切り裂き――瞬く間に、二つあったはずの命が、無価値な血の雨と肉片に変じた。
まさしく鎧袖一触。八人を斬り終えた男は、ビッ、と刀の血を払うと、つまらなさそうに溜め息を吐いた。
「なんだ……こんなものか」
「こ、ん……な……」
馬鹿な、と。
リーダー格らしい大柄な男は、呻くように言った。
ああなるほど理不尽だ。後ろでそれを観察していた娘にとっても、まったくもって理不尽だ。
言ってしまえば虐殺である。死合などでは断じてない。象がアリを踏みつぶすような、たったそれだけの日常茶飯事。
しかし、白髪の男としては、どうもあっさりとしすぎているのが気に喰わなかったらしい。
「もう少し楽しめると思ったんですがね……」
残念だな、と言いつつ、男へと近寄っていく。
「白髪の……まさか……まさかアンタは――」
「くそっ!」
眼を見開く男の横で、もう一人が背後に向けて走り出す。しかし――
「残念ながら……誰も逃がしませんよ」
風が、疾風よりもなお速く、死を纏って駆け抜けた。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
「ふう……」
息を吐きながら、刀の血を拭いて、鞘に納める。
都合十人、分解されたり血を噴き出したりといった風情で死んでいるのを、特別何の意味を込めるでもなく見下ろして、そして思い出したように振り向いた。
そこには、案の状、例の女性がいた。
いや、別に忘れていたわけではない。ただ、真剣に覚えていたらロクなことにならないのも確かだ。
……ただ。
(?)
少々ばかり、様子が変だった。
年頃の少女ともなれば、気持ち悪いとか、怖いだとか、そういった反応をしてしかるべきなのだが……それが、まったくない。
まあ、変に怯えられなくて逆にありがたいという話なのだが。
ぼうっとしているというか、固まっているというか。もしかすれば眼を開けたまま、気絶しているのかもしれない。そんな風情である。
「あのー……大丈夫ですかね?」
仕方なく声をかけると、びくっ、とその肩を跳ねあげた。
「はっ、はい!」
どうやら気絶ではなかったらしい。ほっと胸をなでおろす。
「それは良かった。お怪我もなさそうで何よりです」
「あ、いえ……」
と、今度は顔を赤くして俯く。
一体何なのだろう? 病気でも罹っているのでなければ良いのだが。
そして唐突にぶんぶんと頭を振って、よろよろと立ちあがってから服の埃を払った。そして、こちらを見やる。
「あ、あの……お侍さん」
「……いや、お侍なんてものではなくて、ただの浪人ですが」
「じゃ、じゃあただの浪人さん」
こほん、と姿勢を正してから、ぺこり、と勢いよく腰を折り――
「助けて頂いて、ありがとうございましたっ」
その言葉に、「ああ、いえ」と首を振って、小さく笑った。
「お気になさらず。なに、袖すりあうも他生の縁、ということで」
「いやっ、そういうわけにもいきませんっ。是非お礼を――」
顔を真っ赤にして手を振る彼女の足元で――不意に、ぐちゃりという音がした。
見れば、割られた腹がぶちまけた臓腑を、彼女の草履が踏んでいる。さあっ、と顔色が青くなって、近くの木陰に駆けこんでいった。
嘔吐の音を聞きながら、足元の編笠を拾い上げ、顎の尾を閉める。
「では……」
これ以上巻き込む必要もない。小さく一礼し、先を行こうとする。――と、不意にバランスを崩した。
「おっと……」
背後を見れば、胃の中身をぶちまき終えたらしい少女が、顎を濡らしながらもこちらの裾を掴んでいた。恨みがましい目でこちらを見上げている。
「ま、待って……」
わけもわからず首を捻っていると、ぜいぜいと荒く息を吐く合間に、実に恨みがましそうな声が聞こえた。
「こんな山中に、女を置いていくつもり……?」
「ああ……」
なるほど、言われてみればその通りだ。
近年、街道はひどく物騒だと聞いている。だからこそ、この林道沿いの林に足を踏み入れたわけだが……気がつけば、もう街道は見えないほどに奥まった場所まで来ていた。
ここに少女一人置いていく、というのは、ひどく残酷な話だ。なのだが――
「――まあとりあえず、口を濯いでからにしませんか?」
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