1. 靴紐がほどけています
「騎士団長ケイラン。わたくしの花を、お受けなさい」
「恐縮ですが、受け取れません」
王女の花束は、台の上に置かれたままだった。
春の花祭りの初日。中央広場を埋める群衆の向こうで、ロザムンド王女の金の縦巻きが揺れる。真紅の薔薇と金の百合を束ねた花束から、重たい甘さが風に乗ってここまで届く。拍手を待つ広場に、花飾りの擦れる音だけがやけに近い。
「わたくしの花だと分かって、そのお返事をなさっているの?」
騎士は立ったまま、深く礼をした。短く刈った黒髪が、春の陽を吸っている。
「はい、申し訳ございません。殿下」
顔を上げた彼は、花台の階段へ足を向ける。王女へ拍手を送るはずの人たちは、口を開け、上げた手の下ろし方まで忘れたようだった。
見上げるほどの背が、人垣の上に一つ抜けている。私は出店の花越しに、その横顔を確かめた。
私はミリエ、二十一歳。下町の〈こまどり花店〉で、叔母のパメラと花を売っている。
毎朝、店の窓のカモミールを見ていく騎士がいる。その人を、私は一年、花の陰から見ていた。
声をかける前に、いつも大きな背中が通りすぎる。私は窓辺の鉢の向きばかり直し、おはようのひと言を飲み込んできた。名前も身分も知らなかったその人が、今日はすぐそこにいる。
花渡しの日に、白いリボンを結んだ花束を渡すのは求婚のしるしだ。受け取れば、もう一度会う約束になる。
「叔母さん、出店をお願い。私、花を渡してくる!」
パメラ叔母さんが栗色のひっつめ髪を揺らし、私の杏色の三つ編みをくいと引いた。
「へぇ? 王女様を振った騎士様にかい? 振られに行くなら、あたしは止めないよ。はははっ」
「渡して、振られるからいいんです!」
出店の隅には、まだ買い手のつかない白いカモミールがある。風に揺れるその花へ、私は手を伸ばした。
「振られるところまで決めてんのかい? 一体、何しに行くんだい?」
「待ってても、私の番は来ないんだもの」
「だいたい、今まで名前も知らなかった相手だろ?」
「今、王女様が呼んだわ。ケイラン様だって!」
私は細い茎を抜き、ラベンダーを一枝添える。茎を折らない力の加減は、指が覚えていた。青い草の匂いが、指先に残る。
彼の目の下は暗かった。王女の薔薇が顔へ近づいたとき、息を止めていた人だ。あの人のそばへ置くなら、強い香りよりこちらがいい。
「わお、白いリボンまで使うのね。あら、手が震えてるよ。せめて前髪くらい直していきな」
「前髪はあと! そんなことしてたら、あの人が帰っちゃう!」
結び目を締める私の手へ、パメラ叔母さんの手が重なる。指の温かさが、冷えた手の甲にじんわり伝わる。
「よし、行っといで。自分で選んだ花だろ。張り切って!」
背中を押されて、私は広場へ走り出した。
石畳の継ぎ目が、靴の底でひとつずつ跳ねる。ケイラン様はもう階段の下だ。人の間を抜け、胸に抱えた花束を前へ出す。
「ケイラン様! 私の花も、見てください!」
踏み出した靴の先で、ほどけた紐が跳ねた。
「あっ!」
足が引っかかる。白い花束が手を離れ、石畳へ落ちていく。花だけは、と伸ばした指が空をつかむ。
大きな手が、その花束を宙で受け止めた。
同時に肘が支えられる。片腕だけで彼は私を支えていた。目の前を流れていた石畳が、ぴたりと止まる。
「お嬢さん、靴紐がほどけていますよ」
王女の前では膝を折らなかった人が、私の前で片膝をついた。
「ま、待ってください! 私、自分で結べます!」
彼は花束を片腕に預け、私の靴へ手を伸ばす。つられて足元を見ても、人垣から注がれる視線までは避けられない。
「動かないでください。また転びます」
大きな指が、ほどけた紐をすくい上げた。足首のあたりだけが、日なたに置いたように熱い。結び目は二重に締められた。
「そんなに固くしなくても大丈夫です!」
「騎士団では、この結び方です」
人を守る手が、私の靴紐を固結びにしている。
「騎士団長様に靴紐を結ばせたなんて、私、明日から下町を歩けません!」
「ははは、歩けるように結びましたよ」
しゃがもうとした私と彼の額が近づく。息を吸う音まで聞こえそうで、膝を曲げたまま固まってしまった。
「花を渡しに来たんです。靴を頼みに来たんじゃありません……!」
ケイラン様は紐を確かめて立ち上がる。小さな花束が、広い胸の真ん中にある。私の指で震えていた花が、そこでは静かだ。
「それ、求婚の花束です……。ご、ご存じでした?」
「承知していますよ」
人垣のあちこちから、ざわっと声が上がった。
「えっ、えっ?! しょ、承知って……」
「白いリボンは求婚ですよね?」
琥珀色の鋭い目が、花から私へ戻る。私がひと呼吸する間も、彼の手は花束を離さなかった。
「わ、私だけこんなに慌てて恥ずかしいです……」
「返すつもりはありません」
耳まで上がった熱が、そこで行き場をなくす。返されることばかり考えていた。受け取られた花の続きを、私はまだ知らない。
「……本当に、私の花でいいんですか? 転びかけたのを拾っただけなら、今のうちに返してください」
「この花を受け取りました。それは変わりません」
答えは広場の端まで届く。私の空いた手を見ていた人たちが、今度は彼の腕を見る。
「でかした、ミリエ! それでこそ、こまどりの娘だよ!」
「叔母さん、今は黙ってて!」
花台から下りてきたロザムンド王女が、花束の白いリボンへ指を向けた。
「花屋の花なんて、明日には枯れるわ。騎士団長の気まぐれよ」
「枯れません。水を替えれば、一週間はもちます」
王女の指が止まる。私の声は、市場で花を売るときと同じ大きさだ。足はさっきまで動かせなかったのに、花のことなら声が出る。
「一週間で十分ですわ。そのあとは、あなたの出番もなくなりますもの。騎士団長が、花屋の娘をいつまでも相手になさるものですか?」
「終わるかどうかは、受け取った方が決めます。水の替え方は、私がお教えします!」
王女は笑い、周りの人たちへ顎を上げた。
「騎士団長が毎朝、そんな安い花の水を替えるとでも?」
「花の美しさは値段では測れません」
「まあ、ずいぶん口の減らない花屋ですこと」
ケイラン様は何も言わず、花束を抱え直す。揺れたカモミールが、また胸の真ん中へ収まる。
王女の周りから、笑い声は一つも上がらなかった。
花はまだ彼の腕の中だ。王女の花束だけが、台の上に残っている。誰もその花束を持ち上げようとはしない。
「お好きになさい。わたくしは、その花がなくなる日を見ておりますわ」
ロザムンド王女は背を向け、人々が空けた道を去った。
広場の旗が夕方の風にはためく。春の陽をためた石畳からは、まだほのかな温かさが上がる。私は空いた両手をエプロンの前でそろえる。花束はないのに、指先にはまだ細い茎の形が残っている。
「私、ミリエといいます。こまどり花店の者です。お花のことなら、何でも聞いてくださいね」
ケイラン様は店の場所を尋ねず、私へ向き直った。
「明日の朝、店へ伺っても」
「も、もちろんです! お待ちしています!」
彼の唇が閉じる。私は花束へ逃げかけた目を戻し、彼の顔を見る。窓辺の花の陰へは、もう隠れられない。
「では、明日の朝、伺います」
今度は最後まで、聞き取れた。周りの声が戻ってきても、明日の朝、という響きだけは薄れない。胸の奥で、小さな鐘が鳴りやまない。
「水の替え方、お教えします。花瓶も、私がちゃんと選びますから」
「お願いします」
花瓶の値段なら、迷わず口にできる。けれど明日の朝を口にするだけで、声がひっくり返りそうになる。
「瓶のお代は、ちゃんといただきますからね!」
「はい。払います」
次に会う場所は、私の店だ。明日の私は、窓辺の鉢を直してごまかすわけにはいかない。
花は返されなかった。代わりに、明日もう一度会う約束をもらったのだ。
「はい! 明日は、ちゃんと口説きますから!」




