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8月31日、花火の残り香

掲載日:2025/08/31

公民館のカフェコーナー、午後二時半。


私は冷えたアイスコーヒーのグラスを両手で包みながら、入口を見た。


ドアが軋む音と同時に、智子がバッグをぶら下げて飛び込んできた。


「きたー! 昨日の東別院寺の夏宵縁日、めっちゃよかったって!」


「智子、まず席座って。マスク外してもいいってサイン出てるよ」


と私が苦笑いすると、後ろから美咲がゆっくり入ってくる。


「あら、空いてる? うちの次男、靴脱いで走り出して、もう汗かきかき」


四人目の佳代は、すでに私の向かいでスマホを睨んでいた。


「はいはい、私は席取り係。で、東別院寺ってどうしたの?」


智子が椅子を引きながら、目を輝かせる。


「昨日と今日の二日間、境内で手持ち花火できるって聞いて、旦那と行ってきたんだけど——」


私は思わず身を乗り出した。


「え、お寺で火いじる? 住職さん怒られへん?」


「大丈夫! 線香花火とかくるくるとか、安全なやつだけ。それに紙袋ランタン作りワークショップもあって」


美咲が「ふふふ」と含み笑い。


「紙袋ランタン? うちの長女、ビニール袋でやりたいって言い出して、もう大変。ビニール溶けたらどうすんのって」


佳代が冷たいアイスコーヒーをごくりと飲んで、ツッコむ。


「溶ける前に火事になるわ。お寺でビニール燃やしたら、経済ニュースで『炎上』って文字見るわよ」


私は思わず吹き出した。


「智子、写真ある?」


「あるある!」


智子がスマホを取り出すと、夕暮れの境内がぼんぼりでオレンジに染まっていて、子どもたちが線香花火を回しながら歩いている。


「ほんとだ、幻想的やな」


「でしょ! 風鈴の音と線香の匂いが混じって、もう夏って感じ」


美咲が遠い目をする。


「私も行きたかったなぁ。でも次男が昼寝してたから、結局藤枝の夏マルシェにしか——」


「あ、それ私も気になってた!」と私。


「藤枝のマルシェって、ベビーワークショップってどういうの?」


美咲が首を傾げる。


「ベビーがパン焼くのかと思ったら、違うみたいで。お母さんが生地こねる横で、赤ちゃんが離乳食パン食べるって感じ?」


佳代が「は?」と眉を上げた。


「赤ちゃんがパン焼くわけないじゃん。火傷したら訴訟だわ」


私は笑いながら、氷がカランと鳴るのを聞いた。


「でも、焼きたてパンの行列がすごかったってLINEで見た」


智子がパンを思い出したように頬を膨らませる。


「私、朝イチで並んだんだけど、ベーグル売り切れてた! 人気すぎ」


「藤枝って結構遠いし、朝イチは無理やった」


美咲がため息。


「うちの次男、車で五分で泣き始めて、結局帰りの車内でパン半分食べちゃった」


佳代がスマホを見ながら、ぼそりと言った。


「伊東の夢花火、昨日打ち上げたってLINEきてるけど、みんな見に行った?」


私と智子と美咲、三人で顔を見合わせる。


「いや、まさか」


「台風接近してるってニュース見たから、中止かと思った」


智子が画面を指でスワイプ。


「うわ、打ち上げてる! 海岸の芝生で見れるって。でも写真見る限り、虫だらけじゃん」


美咲が「あはは」と笑う。


「私、虫除けスプレー三本持ってっても足りない自信ある」


私は窓の外、公民館の砂場で遊ぶ子どもたちの声を聞きながら、呟いた。


「でも、花火の音って、ここまで聞こえたかな?」


佳代が肩をすくめる。


「聞こえてたら、『あ、伊東でやってる』って気づいたかもね。でも結局、だれも行ってないじゃん」


四人同時に「そうだね」と笑った。


智子がストローで氷をかき回す。


「東別院も藤枝も伊東も、全部行きたかったのに、全部行けてない」


美咲がぽんと手を叩く。


「明日から九月やし、夏休み最後の日に全部逃した!」


私はグラスの水滴を指でなぞりながら、思わず笑った。


「でも、こうやってみんなで“行きたかった”って話してるだけで、楽しいやん」


佳代が腕時計を見て、顔を上げる。


「そろそろ子供迎えの時間。私、上の子が塾の帰りにコンビニ寄って、カロリーメイト買いすぎるから」


智子も立ち上がる。


「私も、長女が友達とプリクラ撮りたいって、駅まで迎えに」


美咲がバッグを肩にかけながら、呟く。


「次男、保育園で泥だらけになってる自信ある。洗濯機回さなきゃ」


私は最後にアイスコーヒーの残りを飲み干して、立ち上がった。


公民館の外は、まだ夏の陽射しが強い。


「また明日、登下校の時にでも、『結局どこも行かんかったな』って笑おう」


四人で「うん!」と頷き合い、それぞれの方向へ散っていった。


私は自転車の鍵を外しながら、空を見上げた。


どこにも行かなかったけど、今日の午後は、ちょっとした旅だった気がした。

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