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「聞けば、父さんも同じように妖狐の母親を殺した。祖父さんも、そのまた祖父さんも……。でも俺には出来なかった。呪いだか知らないけど、俺には母さんを殺すことなんてやっぱり出来ないから。授業参加に来てくれなくても、一瞬に過ごした記憶がなくても、妖狐であっても、俺の母さんであることに変わりないから」
「イノリ……」
「だから、ごめん……。もう一緒にいられない。俺の代わりに父さんをよろしくな。ああ、部屋の机の上に遺言書があるから。多分、基礎演習のテキストの下に隠されてる。そこに俺の物は全部アキラに譲るって書いてある」
「そんなことを言うなよ。帰って誕生日パーティーをしよう。プレゼントも用意するからさ。おれを一人にしないでくれ……」
「……無理だって。だって俺が欲しいもの、金じゃ買えないものだから」
「何が欲しいんだよ。なんでも用意するから教えろよ」
「明日」
「あした……?」
「これまでみたいにお前と馬鹿騒ぎする日々。些細なことで笑ってふざけ合う、あの楽しかった毎日。怖くて堪らなかった呪いや死について考えなくてもいい幸せな時間だった」
いじめられていたアキラが俺との時間を大切にしてくれていたように、俺もアキラと過ごす日々を救いに感じていた。この時間がずっと続けば良いと願ってしまう程に――。
「呪いを知ってから、明日が来なければいいと願うようになった。お前と過ごす時間がずっと続けばいいって。一人になるとやっぱり呪いや母さんのことを考えちまうから。不安や恐怖を感じなくていい、純粋に楽しいだけの日々だけ続いてほしいって……。でもさ、何も変わり映えしないっていうのは、言い換えれば成長もしないってことだから。子供のままでいた方が何も心配しなくていい分、気持ちは楽だけれども、大人にならないと出来ないこと、分からないこともたくさんあるだろう。今日まで生きてきてそれを知ってしまったから、それなら大人としての明日が欲しくなった。子供の頃は禁止されていた夜更かしや真夜中の菓子、外泊や泊まり掛けの遠出が出来るのは大人だけだから。そんな大人としての明日に憧れた。大人の仲間入りをする二十歳なら許されるだろう。俺には来ないけどさ。来ないって分かっているからこそ、欲しく感じるだろうな……」
「何を言っているんだよ! 言われた通りに呪いを解呪すれば手に入れられるだろう! お前にとっては辛い選択だし、お母さんを殺せなんておれには言えないけど……。今からでも別の方法を考えて、明日を迎えよう! 二十歳の最初の日を手に入れよう!」
「ありがとな、気を遣ってくれてさ。でも、今日で全部終わりにしたいんだ」
縋りつくアキラを突き飛ばすと日本刀を構える。鋭い刃先を向けた先は母さんではなくて自分の身体だった。
スマホが手元に無い以上、今の時刻は分からない。けれどもそろそろタイムリミットだろう。これが俺が選んだ答えだ。
後悔は何も無い――はずだ。
「ごめんな、ここまで付き合わせてしまって。お前と友達になれて最高の人生だったよ」
無理して作った笑顔はただ口を引き攣らせただけで、その代わりにまた目尻に涙が溜まったのか熱い雫が頬を伝い落ちるのを感じた。それでも視界が完全に涙で滲んでしまう前に、俺は目を瞑ると思い切って日本刀を自分に突き刺した――はずだった。
覚悟していたはずの痛みも何も感じなくておかしいと思ったのも束の間、瞼を開けると目の前には俺よりわずかに身長が低い人影があった。アキラは俺と同じくらいの身長だから違う。何よりもその人の腰からは白い尻尾が生えていた。それだけで誰か気付いてしまった。驚愕で目を大きく開いて、息をするのも忘れてしまう。
「か、かあさ……」
乾いた口から出て来た掠れ声を投げかけると、目の前の母さんは後ろに倒れてくる。倒れた衝撃で抜けかけているのか胸元から咲かせた日本刀からは夥しい量の赤い川が流れ続ける。時折、赤い雫をまき散らしながら。
俺の腕の中に倒れて来た母さんは口元からも血を流していた。どうしたらいいのか分からず取り乱していると、母さんは安心させるように小さく微笑む。
「お友達は大切にしなさいって。あの人から教わらなかったの? 祈里」
「お、教わった。でも、それより早く母さんを手当てしないと……」
「いけない子ね。そんな子に育って欲しくなかったから、離して育てたのに……」
話す度に母さんは辛いそうに咳き込む。唇だけではなく、口元を抑える袖にも血が飛び散っていた。
「ど、どういうことだよ……」
「祈里は覚えていないかもしれないけれども、貴方ってば昔から困っている人や生き物を放っておけなかったのよ。今にも死にかけのトンボをどこからか拾って来て、私に助けてって頼んできて……。だから心配だったの。このまま大きくなって呪いのことを知ったら、この子は私のことを殺せないんじゃないかしらって」
「そりゃあ、そうだよ! 母さんを殺せるわけないじゃん! 俺にとって、母さんは一人しかいないんだから!」
「貴方の優しさは一番の長所であり、短所でもあるのよ。お母さんにとっての唯一の誤算は祈里がとても優しい子に育ってくれたことかしら。せめて自分の命くらいは大切にしなさいね」
「か、母さん……」
「強くて優しい子になりなさい。……お誕生日おめでとう。祈里。お母さんはいつだって貴方を想って、祈り続けるわ」
母さんの話を聞いて、頭の中に閃いたことがある。それは三歳くらいの時だった。家の玄関で地面に落ちていたトンボを見つけて宙に放り投げるが、そのまま地に落ちてしまう。それを持って家に入ると、キッチンでは母さんが鼻歌交じりに何かを作っていた。そんな母さんにトンボを見つけたことや飛ばないことを話すと、母さんはトンボを持つ俺の手を握ったのだった。
『祈里は優しい子ね。お母さんと一緒にトンボが元気になるように祈りましょう……』
その後、トンボがどうなったのかは覚えていない。けれども母さんと一緒に元気になって欲しいと祈ったのは確かだ。どうして今になってこんな記憶を思い出すのか……。
「母さん……母さん! 俺、まだ母さんに話していないことがあるんだ! 学校のこと、友達のアキラのこと、父さんのこと。聞いてくれよ、母さん!!」
本当は話したいことがたくさんあった。けれども話したら別れが辛くなるからと何も話せずにいた。こんなことになるのなら話しておけば良かったと後悔する。けれども母さんの瞼はゆっくりと閉じていき――開くことはなかった。
母さんの身体が抜けた途端、今度は俺の身体が激しく痛み始めた。頭と腰の辺りが引っ張られたように骨が軋む。やがてずきずきとした痛みは身体中に巡り、息を吸うことさえ難しくなった。
「イノリ! いったい、何が……」
言い掛けたアキラは何かに気付いたように、ズボンのポケットから自分のスマホを取り出す。待ち受け画面に表示されていた時刻は零時を指していた。
「間に合わなかったのか……。イノリ、しっかりしろ。イノリ!」
「アキラ、ごめん。やっぱ……無理っぽい……」
「諦めるなよ! イノリ、イノリ……!」
痛みで意識が遠のいていく、やがて糸が切れたように俺の意識はプツリと途切れたのだった。