開幕1 『日常』
ぼんやりと映る景色の中、こちらに頭を向けて誰かがうつ伏せで倒れている。
誰か、と言ってもそれはもう人としての原型は留めていなかった。『それ』が転がる岩肌と同じように冷たく、すでに熱は失っているだろう。
腰から下は欠損しており、背中は石礫でも浴びたかのように抉られている。腕は骨と申し訳程度に繋がった肉で形成されていた。
しかし、こちらに向けられた頭部だけは傷一つない。そのため、『それ』が人だったことがわかったのだが、逆に歪で気味が悪かった。
『それ』が絶命しているのは見て取れることだった。それほどまでに凄惨な情景であり、目を覆いたくなる光景であった。だが、瞬き一つ許してはくれなかった。
しばらく続く静止画の中、微かな音が空気を震わした。もしや、と思い、視線を『それ』に向けるが、すでに視界は暗くなり始めており、見ることはできなかった。
そして、段々と、段々と、世界は黒に飲まれていった……。
――― ・ ――― ・ ―――
その朝は珍しく、アラームがなる前に目が覚めた。時刻を確認すると午前五時半。この時間に起きている高校生もいるだろうが、彼にとっては超早起きだ。
それも全て久しぶりの悪夢が原因だった。何せあれは、
「トラウマってのは忘れた頃にやってくるな……って高校生だってのにちょっと目から汗が」
最後に見たのは小学一年生の頃だろうか。それ以来見てこなかった、実に九年ぶりの再会である。それは感動のなm……汗も出てしまう。
しかし、これでもまだマシになった方である。小学生の頃は眠るのが嫌になるレベルで怖がっていた。いやにリアルだったのが理由だろう。
そんなことは置いておき、彼は自室を後にして、階段を降りる。そして、一階に着いたとき、またしても珍しい光景を見た。
「おっ! おはよう、六玄。珍しいなこんな時間に起きるなんて」
食事用の椅子に腰掛けて、六玄に声をかけてくる中年の男。片手にはお茶で満たされたコップを持っており、かなりくつろいでる様子。
「おはよう、それはこっちのセリフだけどね」
少し他人行儀に受け答えながら、六玄もコップにお茶を注ぐ。そして、男と向かい合う形で椅子に座った。
「おじさんが家にいる方が珍しいよ。なんでいるの?」
「一応、俺の家なんだがな……」
ムクロの質問に対して、苦笑を浮かべる男。彼の言う通り、ここは彼の家であり、ムクロは住ませてもらっている立場。それにしてはおかしな物言いであったが、男は気にしなかった。
「ちょっと近くに用事があってな。どうせなら息子の顔も拝んでいくかってとこだ」
息子、というのはもちろんムクロのことである。つまるところ、ムクロと男の関係は親子、それも義理の親子である。
「なら凛さんも呼んでこようか? 多分まだ寝てるだろうし」
「いや、あいつはいい。それに久々の娘に顔合わせんのはちょっと恥ずかしいじゃん?」
「何言ってんだ、あんたは」
中年男性が体をモジモジと揺らす仕草は見るに耐えず、ムクロの言葉は鋭さが増してしまう。しかし、養父は気にしてないようだ。
ちなみに、凛さんというのは養父の実の娘であり、ムクロにとっては義姉にあたる。すでに成人済みではあるものの、ムクロとそこまで歳は離れていない。
「それで、ほんとに用ってそれだけ?」
さっきの引き気味の顔をそのままに、ムクロは問いかける。
そう思ったのには特に理由があるわけではなかった。言うなれば、勘。しかし、彼の勘はよく当たる。
「おっと、六玄は勘がいいな。流石、俺の息子だ。つっても、血は繋がってないけどな!」
ムクロの勘は当たったようで、養父は天井を見上げるように大きく高笑い。飲んでるのが酒なのかと疑う程にテンションが高いが、彼にとってはこれが平常運転である。
ひとしきり笑った後、養父は懐から何かを取り出す。その手に握られていたのはお守りだった。
布に包まれた一般的なお守りだが、ご利益の種類がわからない。普通、学業成就やら書かれているところには見たこともない文字が書かれていた。
「なにこれ?」
「見てわかるだろ? お守りだよ」
ムクロの疑問はご利益についてだったのだが、養父には伝わらなかった。しかし、返答後のムクロの反応を見て、彼は理解したようで、
「強いて言えば、厄除けだ。効力は俺が保証する」
そう言って胸を張る養父。それほどにこのお守りは自慢の品などだろう。
ここで、養父が保証したところで何になる? と思う者もいるだろうが——この養父、陰陽師である。
「陰陽師の太鼓判って逆に不安なんだけど……」
「そうだろそうだろ! 現役陰陽師イチオシのお守りを貰えるなんて嬉しいだろ!」
人の言葉を聞く耳を失ってしまったようで、養父は自身の手の中にあったお守りを無理やりムクロに握らせる。
いやいや受け取ったムクロだったが、お守りの質感は至って普通の市販品のようだった。
「冗談はこんなもんにして、そのお守りは本当に大事な物だ。いつか必ずお前の役に立つ。だから、肌身離さず持っていてくれ。これは親として、だからな」
先程までの酔いを覚まし、ムクロに向けた養父の視線はいつになく真剣であり、声も同様であった。
それを受けて、「養父のくせに」と言うほど、ムクロの性格はひん曲がっていない。態度に言いたいことはあるものの、それ以上に彼は感謝していた。
手渡されたこれを受け取ることが、その恩返しのひとつになるのならと、ムクロはお守りをポケットに入れた。
「これで用は済んだ?」
「ああ。ちゃんと持っとけよ」
その言葉を最後に、養父はいつの間にか居なくなっていた。養父にとってはいつもの事なので、ムクロは気にせず朝食を作り始めた。
話は飛んで、その日の放課後。お守りの件もあり、色々警戒していたが、無事放課後を迎えることができた。
「うわっ、もう夕方じゃん。今日の日直はハズレね」
「ほんとにね。もう誰も教室に残ってないし」
今は、先生に頼まれた日直としての仕事を終えて、教室に戻ってきたところだ。
窓からは夕陽が差しており、外からは部活動に励む声が聞こえる。
相方の女子が先に帰宅準備を済まし、
「結城くん、また明日。教室の戸締りよろしくね」
「うん、また明日」
ムクロの返事を背で受けた女子は帰っていき、教室の空間はムクロだけのものとなった。
「まあ、やることも無いんだけどね。帰宅部は帰宅部らしく帰りますか」
嫌味っぽく言葉を吐いて、ムクロも帰宅準備を進める。机の中の教材をリュックに詰めて、忘れ物がないか机の中を最終確認。
そうして、ムクロがリュックに片腕を通そうとした時、廊下を歩く足音が聞こえた。
「こんな時間まで残っているなんて、おおよそ穂染先生のお手伝いかな?」
ムクロが声の方を見やると、ポニーテールの女子生徒が立っていた。
彼女の訪問ももう何度目になるだろうか。ある日を境に、ムクロは彼女に付きまとわれるようになった。
「どうしてそこで穂染先生が出てくるんですか」
「学校一人気の先生だ。彼女の名前を出せば、結城君も喜ぶと思ってね」
「僕を発情期の猿と勘違いしてます?」
穂染先生とは、この学校の保健医である。男女問わず人気の先生であり、その美貌は犬や鳥も魅了するらしい。
「それで、そんなご機嫌取りをして、僕に何の用ですか?」
「君も意地悪だなぁ。私たちの逢瀬も今日で最後だと言うのに」
「勧誘ね。逢瀬なんて言い方……って、最後!?」
特殊なノリツッコミをかますムクロ。あまりに予想外だったのか、珍しくリアクションが大きい。
そんな反応を横目に彼女の足は進み、ムクロの隣の席の椅子、ではなく机に腰掛ける。
「そういえば、一年に転入生が来たようだね。後輩曰く、結構可愛いらしいじゃないか」
話題を変えて、次のテーマは”転入生“。だが、ムクロが情報に疎いせいであまり転入生については知らなかった。唯一、知っているのは、
「風の噂だと、無愛想らしいですけどね。逆にそこが良いなんて話も聞きましたけど」
「元が無愛想なら、ギャップ萌えも狙えるかもしれないな。世に言うツンデレってやつだ」
まるで、プロデュースでもしているかのように転入生の属性を分析する女子生徒。顎に手を当て、深く考え込んでいる辺り、本気でやりかねない。
ふいに、顎に当てられた手は机を突き、女子生徒の視線はムクロを捉える。
「やはり、我が部に入る気にはならないかい?」
「急に話戻しますね……! 最後だから諦めて雑談しに来たのかと思いましたよ」
「最後だからだよ。君のような才能を逃すわけにはいかないのさ。あの日の健脚は我が陸上部でこそ輝くはずだ」
熱のこもった言葉。今までにも彼女からの勧誘は幾度となく受けてきたが、今日のは特に熱があった。だが、ムクロの心に火は灯らなかった。
しばらくの間、静寂が教室を包んだ。グラウンドからの声は雑音と化す。ムクロにはイエスという選択はなく、ノーを言うための時間が流れた。
「……やっぱり僕には無理です。部長さんの期待には応えられません」
「そうか」
短く返して、机の上から跳ね降りる部長。幾度に及ぶ勧誘は失敗に終わり、教室を後にしようとムクロに背を向ける。しかし、少し歩いた後に振り返り、「最後に」と前置いて、
「君に一つ、言葉を贈ろう。——才能を与えられた者にはそれ相応の義務がある」
「......良い言葉じゃないですか」
部長の伝えたいことはムクロに十分伝わった。部長はムクロに健脚という才能を活かして欲しいらしい。ただ、それは部長側の視点の話。ムクロにとって、この格言は全く的外れであった。
ムクロは「ですけど」と付け加えて、言葉を続ける。
「周りが羨む才能だったとしても、本人が望んだ物とは限らないんですよ。その格言を残した人にはそういうとこ考えてほしいですね」
「私の尊敬する者の言葉だったんだがね。肝に銘じておくよ」
ムクロの言葉を受けて、心底残念そうな顔をする部長。その口から零れた言葉にムクロは違和感を覚える。
「部長さんの肝に銘じても意味ないですよ」
肝に銘じるべきは格言を言った人であり、部長が銘じる筋合いはない。それに、”尊敬する者“という言い方にも違和感を感じた。
指摘された部長はきょとんとした顔で、
「私の格言なのだから、私が反省するべきだろう?」
さも当然のごとく彼女は言い放った。
彼女の態度にムクロは苦笑を浮かべることしかできなかった。どこまでいっても読めない彼女の言動には、そう反応するしかなかった。
諦めの苦笑をムクロが浮かべた時だった。
——闇が蠢いた。ムクロに顔を向ける部長の背後、二本の黒腕が彼女を掻き切らんと伸びていた。
「——っ!」
口から出る音が声になるより先に、ムクロは手を伸ばし、部長の腕を掴む。
その手には異様に力が籠っていたが、そんなことは気にせず、ムクロは腕を引き、部長を抱き寄せて、後ろに下がる。
「おっと、急に積極的になって——」
「今はちょっと黙っててください」
部長の軽口を静かに制するムクロ。その雰囲気の違いを感じたのか、部長は口を噤み、ムクロの視線の先を追う。
ムクロは腕の中でビクッと僅かな震えを感じた。ようやっと、部長もこの場の異変に気づいたようだ。
二人の視線の先、さっきまで部長が立っていた辺りに、黒い人型が立っていた。闇から現れたように見えたそれは、形容するに、影と言わざるを得なかった。
「あれは何だい……?」
「多分ですけど、妖です」
聞き馴染みのない単語に首を傾げる部長。そうなるのも無理はない。ムクロ自身、養父や義姉から聞いたことがあるだけで、実際に見たことはない。
「部長さん、僕に掴まっててください。決して離れないように」
ムクロの腕の中で部長は言葉は発さず、首をコクっと縦に振る。視界の端でそれを確認したムクロは対敵する影の動きに集中する。
影はゆったりとした足取りでムクロとの距離を詰めてくる。それに合わせて、彼も窓側の壁に後ろ足を進める。
「…………」
静寂が教室を支配していた。部活に励む青春の音など耳には入らなかった。
緊張ゆえに舌が乾いてしまう、そんな雑念が過ぎったとき、影が嗤った気がした。
「——来る!」
ムクロの予期した通り、影は前傾に体を倒し、動き出した。
踏み込みと同時に、大きく後ろに振りかぶった右腕には微かに光が見え、次第に輝きを増す光は光剣となり、勢いに任せて横薙ぎする。
「やっばいっ……!」
予想以上の範囲攻撃に対して、咄嗟に教室入口側に避けるムクロ。部長を抱えての回避だったが、動きに支障はなかった。
「……よく今の避けたね」
「僕も驚いてますよ。自分の反射神経に感謝です」
苦笑いしている部長の言葉に、同じく苦笑しながら答えるムクロ。ここぞという時に健脚を見せつけた自分を褒めてやる。
光剣の威力は半端ではなく、教室の窓は全壊しており、風通し抜群の快適な一室に様変わりしていた。
あの威力を我が身で受けるとすれば、などとムクロが嫌な方向に考えを巡らせていると、腕の中の部長が、
「ところで結城君、この先の策はあるのかな?」
「逃げるだけなら。ただ……」
自身の策に不安があるのか、ムクロは言葉を濁らせる。
この場において、ムクロの最優先事項は誰も巻き込まないこと。部長を除いて。
そのために彼がすべきことは二つ。崩壊音を聞いた誰かが教室に来る前にここから脱すること。そして、
「誰も巻き込まない場所にあいつを誘導したいんですけど、良い場所知りません?」
「ふーむ、優しい君を助けたいのは山々だが……あっ」
少し考え込む部長だったが、思い当たる節があったようで、ムクロを見上げると、
「みたま山とかどうだい? あそこなら人目に付くことは少ないはずだ」
「……あんなところに近付く人なんて物好きですもんね」
部長の提案に間を置いて反応したムクロは言葉を吐く。その変化に若干戸惑った部長だったが、ムクロはすぐに気を取り直し、
「部長さんの案に賛成です。じゃあ、失礼しますね」
「ふぇ?」
「そんな声出すなんて部長さんらしくないですね」
急に体が宙に浮いたため、気の抜けた声を漏らす部長。そんな意外な一面を見て、部長を軽々肩に担ぎ上げたムクロは笑う。
「私だって乙女だからな。急に担がれたりしたら……重くない?」
「羽のように軽いですよ。——ちゃんと掴まっておいてくださいね」
さらに可愛らしい反応をする部長にムクロは冗談混じりに答える。しかし、そんな笑みは一瞬で、ムクロは立ちはだかる影に視線を移す。彼は空いた左手で目の前の椅子を持ち上げて、
「喰らいやがれ!」
「——————!」
影は理解できない音を叫びながら、自身に向かって飛んでくる椅子を破壊する。ただ、破壊音の響く中、影はムクロへの注意を逸らしてしまった。
その隙を彼は見逃さず、部長の重みを感じさせない速さで駆け出す。
「ど、どこに走って……」
「そんなの決まってるじゃないですか」
唯一、誰も巻き込まずに教室から抜け出せる出口。この開放的な教室において、一方通行の出口。
「窓ですよ」
「ここって四階……」
「部長さん自慢の健脚なんで大丈夫です」
「ちょっ——」
部長の決心が着く前に、ムクロは崩れかける教室の端を踏み込む。空へ駆ける二人。部長の絶叫が響くかと思われたが、光剣による二度目の轟音が彼女の声を掻き消した。
ここまで読んでくださりありがとうございます。
更新は不定期になりますが、気長に待ってくれると幸いです。