サリー・アン課題と なろう系 ~鈍感な方が生きるのは楽なのかも、という話~
サリー・アン課題。
これは臨床心理学における心理テストの一つです。
アン・サリー課題、アン・サリー問題なんて呼ばれることもありますね。
これが何なのかを説明する前に、まずは実際にテストをしてみましょう。
次の情報から状況を読み解き、後の質問に回答してみてください。
部屋の中、サリーとアンという二人の女の子がいます。
二人はそれぞれ人形を持っていて、サリーの前には赤い箱が、アンの前には青い箱がありました。
サリーは用事のため部屋を出ることになり、その前に自分の持つ赤い箱の中に人形を収めました。
しかしその後、サリーがいなくなった後にアンはサリーの人形を自分が持つ青い箱に移してしまいました。
【質問】
戻ってきたサリーが自分の人形を取り出すために開けるのは、赤い箱と青い箱のどちらでしょうか?
これは引っ掛け問題とかではないので、深く考える必要はありません。
回答は少し行間を空けてから書きますね。
【回答】
心理テストなんで厳密には正誤はないんですが、国語的には赤い箱。
「なにバカな質問してんだ?」と大抵の人は思うでしょう。
ですがこの質問は、強めの自閉症だと結構な確率で「青い箱」と答えてしまうんだそうですよ。
特に問題ない人がこの課題を受けると、サリーの立場になって状況判断するわけです。
部屋を出ていたサリーはアンの行動を知らない。
知らないから自分が人形をしまった赤い箱(自分の箱)を開ける。
という理屈ですね。
ですが自閉症だと「他人の立場に立って物事を考える」という思考や論理的な状況判断が出来ない場合があり、見たままの情報で、三人称視点や神の視点と呼ばれる視点で得た情報で答えてしまうんだとか。
自閉症の特徴は社会性障害、コミュニケーション障害、想像性障害の三つで、これらの問題によって状況や他人の考えなどを客観視することが難しくなっているわけですね。
以上、サリー・アン課題でした。
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さて、ここからが本題ですが……
なろう系作品の中にはサリー・アン課題と似た構図になってるものが結構あると思いませんか?
書籍化・漫画化されている、とある作品を例に考えてみましょう。
主人公は騎士になるための学校に通う学生。
だけど主人公自身は騎士になる気がなく、いわゆる不良学生になっている。
結果、素行の悪さに激怒した教師が退学を宣告。
(というか、主人公が退学になるよう誘導してた)
学校を退学になった主人公に父親も激怒。家から追い出される。
(というか、主人公が望んで出ていった)
こうして冒険者になった主人公は勝手気ままに無双&成り上がりして、教師や父親は「ざまぁ」される。
これをサリー・アン課題のように、教師や父親の視点で考えてみてください。
騎士は現代においての軍人。
なのに主人公は規律も守らず、協調性もなく、むしろわざと退学になるよう振る舞っていた。
一教師が退学を決めるのはやや越権行為ではあるものの、教師の判断は概ね間違ってはいない。
父親は主人公の将来をコントロールしようとしてたのかもしれない。
けど、親が子供にまともな進路を提示するというのは一定の理解が得られる行動で、学校ということは入学金や学費は親が払ってたと考えられる。
これ、ちゃんと客観視すれば「ただただ主人公がクズ」って話なんですよ。
学校という場でルールも守らず、度重なる注意も無視して、入学金や学費を払ってくれていた親に後ろ足で砂をかけて家を出ていくとか、クズ以外の何者でもないでしょ?
いったいどうやったらこんな主人公に肩入れ出来て、ほぼ間違ったことをしてない教師や父親が不幸になるのを喜べるんですかね?
主人公がクズなのはいいんですよ。
ただし、それはちゃんと作中でも「主人公はクズである」と描写・明言されている場合、登場するキャラの多くが真っ当な感覚で主人公を批判している場合の話ですね。
御多分に漏れずこの話でも主人公は素晴らしい人間として描かれていて、ワッショイ要員は全員主人公サマをワッショイワッショイ。
主人公サマの凄さに気づかないとか、教師や父親といった悪役どもはマジカッス。はー、つっかえ。
いやー……もう、ね……
「認知大丈夫?」って聞きたくなりますわ……
他の作品でも「その視点おかしくね?」という話が多々ありますね。
たとえば……
待ち合わせ場所にヒロインがいない。
主人公はすぐさまヒロインが誘拐されたと判断して追跡開始。
主人公の考え通りヒロインは拐われていて、ヒロインを救出。
ヒロインや周りのモブは主人公を称賛する。
いやいやいや、なんで主人公は即座に誘拐と判断したん?
と。
正常な思考で主人公視点になると、この場合いくつかのパターンが考えられます。
自分が早く来すぎた、ヒロインが遅れている、どちらかが待ち合わせ場所間違ってるかも、などですね。
まずは少し様子を見る、というのがベターな対応じゃないかと。
待ち合わせ場所に争った形跡があり、ヒロインの持ち物が落ちていた。
というような描写を挟んでいたら、即座に誘拐と判断してもいいと思います。
でも、なろう系の場合、そういう細かい描写を省いているのに主人公(作者)が「こう!」と思ったらその通りの展開になる、という話がマジで多いんですよ。
つまり、こういったガバガバな話を違和感なく読めてしまう人、書いてしまう人は、神の視点という一視点でしか物事を見て(考えて)いない節があるんです。
それは重度軽度の違いはあれど、サリー・アン課題に引っ掛かる人と似たような特徴を持っているんですね。
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「考えてみるに、これはどちらが優れてるんだ?」と悩むことが、この世の中結構あります。
たとえば味覚。
味覚が鋭い方が優れているように感じてしまいますが、よくよく考えると「何食っても美味しい」って人の方が食生活は楽ですよね。
たとえば霊感。
幽霊が見えたり感じたりすることでストレスを感じるのなら、何も見えない感じないって人の方が幽霊に対して強いってことじゃねーか、と。
たとえば社会性。
社会性があることで他人のことにまで気を使う人より、自分のこと以外あまり気にしない人の方が人生は楽っちゃ楽ですよね。
まぁ社会性については度が過ぎると社会生活が成り立たなくなって、究極的には社会から強制排除されたりするんですが。
漫画や小説も同じで、設定や物語性を深く理解出来ない人の方が幅広く色んなものを読めるんですよ。
設定や物語性を深く理解するつもりがなければ、ガッバガバな話も緻密な話も同じラインで読めますから。
漫画やアニメといった媒体は視覚に頼る割合が高くなるため、それがより顕著ですね。
ただ、理解力が低い人間というのは、社会にとってはなかなかに厄介な存在です。
LGBT法案、女性支援法、ヘイトスピーチ禁止法(解消法)などなど、表面的には良いことであるかのような決まりは色々とあります。
が、これらの大半は深掘りすれば大量の問題が隠れているもので、成立までに危険性を訴えていた人は多くいました。
ヘイトスピーチ禁止法なんて、外国人→日本人のヘイトは無罪ですが、日本人→外国人のヘイトは有罪、って実例が出てますからね。
こういったものの裏で蠢く存在は自分達が正義であるかのように振る舞い、支持を集めようとします。
そのターゲットになるのが、理解力が低い人達なんですね。
理解力の低い人というのは、表面的な正義に乗っかって指揮者が指定した「悪」に攻撃してくれる、指揮者にとって非常に動かしやすい駒なわけです。
たとえ創作でも、理解力・読解力はダイジ、トテモ。
こんなところで理解力を発揮出来ない人が、現実では理解力を発揮出来るなんてわけはないんですから。
各々、あらためてしっかり考えてみましょう。
という話でした。
おわりー。